坂本龍馬銅像(高知県高知市)




(第17回「坂本龍馬暗殺事件についてA −坂本龍馬と大政奉還−」)
 いわゆる「薩長土」という、明治維新に功績のあった藩の中で土佐藩が三番目に数えられる所以は、薩長両藩が倒幕に向けて準備を進めていた慶応3(1867)年当時、土佐藩がその運動に乗り遅れざるを得なかったためです。
 土佐藩が倒幕運動に乗り遅れた理由は大きく分けて二つあります。


一、前藩主の山内容堂が幕府擁護的な考えを強く持っていたため、最終段階まで反幕的な態度を取ることが出来なかったため。

二、土佐藩自体が「土佐勤皇党の獄」で、藩内の武市ら勤皇派の大物を切腹させるなどしてほとんど処分してしまっていたため。



 以上二つの理由から、土佐藩は倒幕運動に乗り遅れざるを得なかったと思うのですが、特に後者二番目の理由は、簡単に言えば、武市らを弾圧してしまったため、土佐藩内に薩長に渡りを付けられる人物が非常に少なかったためとも言えます。

 薩長両藩の関係者と親しく交流していた土佐藩を脱藩していた坂本龍馬や中岡慎太郎といった面々を、土佐藩の執政となった後藤象二郎が藩として面倒を見ようと考えたのは、薩長に渡りを付けられる人物が欲しかったためであったことが、その根本的な理由の一つであったと思います。
 しかしながら、前述したとおり、土佐藩には前藩主の山内容堂という、藩としては誠に扱いにくい、やっかいな人物がいました。薩摩藩で言えば、容堂は久光の存在のようなものですが、この容堂の存在があったため、慶応3(1867)年当時の土佐藩としては、幕府を見限り、大っぴらに薩長に接近することが出来なかったと言えましょう。
 また、例え土佐藩自体が薩長と接近出来たとしても、今となっては薩長両藩に次ぐ第三番目の勢力になってしまう……。
 つまり、慶応3(1867)年当時の土佐藩は、非常に微妙な立場(つまり、薩長側か幕府側かは表向きは分からない立場)におり、藩の方針自体に行き詰まりを見せていたのです。

 そこに登場してきたのが、坂本龍馬であり、彼の打ち出した大政奉還論でした。
 この大政奉還論の原点は、龍馬の師匠である勝海舟に出所があると見て良いと思いますが、龍馬はこの切り札を当時土佐藩の要職に就いていた後藤象二郎に示しました。土佐藩船「夕顔」の船内で、龍馬が後藤に対して大政奉還論を説明する場面は、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』の中でも非常に重要な一場面として描かれています。
 龍馬から思いがけない提案を受けた後藤は、その大政奉還案に飛びつきました。なぜならば、龍馬が示した大政奉還路線ならば、幕府寄りの考え方を依然として持っていた容堂を納得させることが出来、しかも土佐藩自体も薩長の風下につくことなく、独自路線を打ち出して、一気に政局のイニシアチブを握ることが出来るのではないかと考えたからです。
 つまり、後藤は大政奉還により、薩長に対抗する、新たな独立した別勢力を形成出来ると考えたのです。
 後藤は龍馬が立案した大政奉還案を容堂に進言した際、容堂はその案を非常に喜んだと伝えられています。それはそうでしょう、大政奉還が実現すれば、薩長の野望を打ち砕くことが出来るばかりか、幕府の面子を出来る限り潰すことなく、土佐藩が受けた幕府からの長年の恩義に対しても、報いることが出来ると容堂は考えたからです。

 龍馬が提唱し、そして後藤が土佐藩の藩論として行動に移した大政奉還論は、二人の懸命な働きで上手く事が運び、慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜は260年以上もの長き間有してきた政権を朝廷に対して返上することになりました。このことは古今東西例を見ない、まさに未曾有の出来事でした。そしてこの大政奉還より、武力倒幕を進めるために「討幕の密勅」を得ることに努力していた薩長両藩は、倒幕のための名目、つまり大義名分を失うことになったのです。
 しかしながら、前回にも書きましたが、大政奉還後の薩長両藩は、そのことをまるで無視するかのように、言わばゴリ押しで武力倒幕への方針を変えなかったため、慶応3(1867)年11月当時には、大政奉還自体そのものの効果が既に形骸化していたのです。このあたりの薩長の動きは非常に強引なものがありますが、前回にも書きましたが、「徹底的に幕府を崩壊させなければ真の革命は成就しない」と西郷や大久保らが考えた末でのことです。
 感情論で考えれば、薩長の行動は誠に非情極まないことですが、感情論を抜きにすれば、革命にはこういったある種の強引さは必要であったとも言えるかもしれません。幕府にとってはむごい仕打ちではあったでしょうが、旧体制の崩壊のためには必要なことでもあったのです。

 前回も書きましたが、私が薩摩藩に龍馬を暗殺する理由がないと考えるのは、武力倒幕路線を変更しないことで、大政奉還の効果(つまり、倒幕の大義名分を失わせる効果)が既に形骸化していた以上、それを成し遂げた龍馬を薩摩藩が暗殺するメリットがないと考えるからです。
 つまり、大政奉還以前であれば、それを成功させないようにするために龍馬を暗殺しようと考えるのであれば、まだ理解は出来ますが、既に大政奉還が成され、しかも薩長はそれに構うことなく倒幕路線を変更しなかった時期となっては、龍馬を暗殺する必要がないからです。
 また、薩摩藩黒幕説の動機として挙げられる、大政奉還後の龍馬の動きを封じるための暗殺であったという理由も、私には解せません。確かに、龍馬自身が薩長の武力倒幕封じに動き、薩長両藩にとって「迷惑」な人物であったのかもしれませんが、前回も書きましたが、龍馬自身が何が何でも平和的に事を解決するという考えの持ち主ではなく、その心中には武力倒幕計画案も持っていたと思われますから、薩長がリスクを背負ってまで龍馬を暗殺する必要性は限りなく小さいと考えるからです。
 つまり、薩長両藩にとっては、当時の龍馬はそれほど危険な人物でもなかったと思います。

 話を戻しますが、このように土佐藩は一旦は龍馬の大政奉還論で政局の主導権を握れたと思いきや、薩長両藩が武力倒幕への路線を変更しなかったため、また、再度政治的に行き詰まりをみせました。
 つまり、薩長が倒幕に推し進む場合、幕府と薩長、どちらに付くべきかを判断出来ない、非常に藩論が中途半端な状況に再び置かれてしまったとも言えましょう。
 このような形で政治的に行き詰まった土佐藩を龍馬自身が何とかしようと模索していた時期が、龍馬が暗殺された時期であったと思います。おそらく龍馬自身もまた、大政奉還後に打つ次の一手をどうすべきか、この事態をどう打開していくかを日夜考え続けていたと私はそう思います。

 坂本龍馬という人物は、土佐藩を脱藩し、その後は勝海舟の下で海軍や軍艦の操舵術について学んだり、長崎で亀山社中という会社を立ち上げたりし、いかにも奔放な自由人のイメージがつきまといますが、彼にとっての土佐、つまり故郷でもある土佐藩には、並々ならぬ愛着を持ち、現代の我々には想像もつかないほどの大きな思い入れがあったように思えます。
 当時の「藩」というのは、現代で言う「国」と同じ概念です。現代でも自分の生まれた国のことを愛さない人は居ないでしょう。特に幕末のような時期であれば、そういった国を愛する気持ちは、現代に生きる我々よりもより一層強く、そして大きなものであったと思います。
 坂本龍馬という人物は、自らの藩だけのことを考えるのではなく、日本全体のことを考え、国事運動に挺身したことは周知の事実ですが、それでもやはり故郷である土佐藩のことは日本全体と同じくらいに大事な存在であったと私は理解しています。
 龍馬が政治的に行き詰っていた土佐藩の後藤に対し、大政奉還案を示したのは、日本の国のためであることはもちろんのこと、窮地に立っていた土佐藩を救うためでもあったと私は理解しているのです。
 つまり、龍馬は土佐藩に対し、進むべき道筋をつけたのだと思うのです。
 幕末の自由人と言われた龍馬であっても、やはり故郷である土佐藩を想う気持ちは非常に大きかったと私には思えます。
 龍馬の大政奉還運動は、日本の国のため、ひいては土佐藩のための運動でもあったと私は理解しているのです。




追記「坂本龍馬の平和路線主義について」
 坂本龍馬という人物は、大政奉還を成し遂げたことから、よく平和主義者だったと言われることがありますが、そのことに関して言えば、私は甚だ疑問です。
 幕末に限らず、歴史上の人物や出来事を正確に理解するためには、その時代時代の背景や風潮、常識、思想などといった、言わば「時代の空気」を窺い知れるものを十分に理解しなければならないと私は考えています。
 つまり、幕末の人物を理解するためには、現代の感覚や常識で彼らの考え方や行動を理解しようとするのではなく、幕末という時代の空気や常識をもって推し測り、理解しなければならないということです。

 幕末という時代を考えると、「世直し」つまり「革命」のことですが、これをやり遂げようとする手段や方法はただ一つ、武力を用いて、つまり戦(いくさ)で世直しをするということが当時の一般常識であり、当時生きていた人々全ての共通の考え方だったと思います。
 現代の感覚から考えると、「武力革命」なる言葉は甚だ荒っぽいやり方に聞こえ、「革命は武力なしでも出来る」と考えることもが出来ますが、それは我々が民主主義に生きる時代の人間であるからであって、あの時代つまり今から130年以上も前の武家社会(幕末当時は純然たる武家社会です)に生きる人間が、そのような先進的な考えを持つことが出来たか? と考えると、私には疑問を感じずにはいられないのです。
 外遊(留学)を経験した一握りの人間、例えば福沢諭吉のような外国の制度を理解していた人間でさえも、「平和主義(つまり武力を用いない平和革命主義)」がその当時、実際の世の中に通るものとは、到底思っていなかったのです。
 つまり、武力を用いて幕府を倒さなければならないということは、当時の時代の空気を考慮すれば、ある意味当然の考え方だったのです。

 しかしながら、「龍馬はその例外である」と主張される方もたくさんおられると思いますが、彼の書簡、日記、行動などを考慮しても、彼が武力を用いない平和革命主義者であったとする根拠資料は乏しいと感ぜざるを得ません。龍馬の行動そのものを見ても、長州征伐への参戦や、武器の購入や運搬を行なう海援隊の活動等を行なっていることからも、やはり龍馬も幕末の常識人の一人であったのではないでしょうか。
 大政奉還というものは、武力を用いずに政権を朝廷に返上させる、当時としては未曾有の離れ業であったとは思いますが、本文中にも書いたように、龍馬はそれが成らざれば、武力を用いることを覚悟しています。このことは、はっきりと彼の書簡にそう書かれています。
 大政奉還というものは、平和的に事を収めるための論策というだけではなく、本文中にも書きましたが、土佐藩を政局へ浮上させるための論策でもあり、また、徳川家の面子を保たせるための論策でもあったなど、平和路線を主張するためだけのものではなく、色々な要素(つまり目的)が含まれたものであったと理解する方が良いような気がします。
 機を見るに敏で、非常に聡明だった坂本龍馬が、大政奉還後にまったく戦争が起こらずに、そのまま無事に事態が収束するなどという甘い考えを持っていたとは、私には考えられませんし、もし龍馬が暗殺されずに生き残ったとしても、いわゆる平和革命路線に動いたとは到底思えないのです。




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