坂本龍馬誕生地(高知県高知市)
坂本龍馬誕生地(高知県高知市)




(第22回「大政奉還について」)
 2008年に放映されたNHKの大河ドラマ『篤姫』を見ていて非常に気になったことがありました。
 それはドラマの後半に描かれた「大政奉還(たいせいほうかん)」の描き方についてです。
 脚本家が意図的に演出しただけなのかもしれませんが、ドラマ内では西郷や大久保らが武力を用いて倒幕を成し遂げようとする、いわゆる「武断派」として扱われ、その対立軸として、大政奉還を推し進める坂本龍馬、小松帯刀らが(小松がここに位置づけされていること自体、大いに疑問なのですが……)、まるで戦争反対の「和平派」であるかのように描かれていました。
 そもそも大政奉還というものは、武力倒幕に対抗するための単純な平和路線主義が生んだ性質のものでは決してありません。
 大政奉還を推進したのは、後藤象二郎や坂本龍馬といった土佐藩関係者であったことは周知の事実ですが、土佐藩側の立場から考えると、煎じ詰めれば大政奉還は、政局のイニシアチブを握るためのもの、もっと大胆に言うならば、奪うために仕掛けたという側面が強いものではないかという風に私は解釈しています。

 2010年に放映されたNHKの大河ドラマは、その大政奉還を推進した坂本龍馬が主役の『龍馬伝』でした。
 この『龍馬伝』においても、物語のクライマックスとして大政奉還が描かれていましたが、案の定『篤姫』の時と同様に、同じような視点で描かれていました。
 確かに、

「戦争か和平か?」

 という対立軸を作り出すことによって、ドラマがより分かりやすく、面白くなるという効果もあるのかもしれませんし、大河ドラマはあくまでもテレビの時代劇であり、フィクションであるので、そううるさく言う必要はないのではないかと思われるかもしれませんが(と、言いながら、NHKは大河ドラマの最後に「このドラマ(物語)はフィクションです」というような文言を一切入れていないことに大きな不満はあるのですが……)、大河ドラマに関して言えば、他の歴史系時代劇とは異なり、それを見た視聴者が、描かれた内容がさも史実であるかのように勘違いをするケースが非常に多いため(それだけ大河ドラマの影響は大きいと感じます)、細かなフィクションは演出上仕方がないにせよ、話の本筋(根本)については、もう少し正確に描いてもらいたいものです。

 大政奉還が行われた慶応3(1867)年当時の京都における政治情勢を見ると、龍馬の出身藩である土佐藩の動きは非常に鈍く、薩長両藩より一歩出遅れ、常に二番煎じに甘んじざるを得ない状況に置かれている観が見受けられますが、それには一つの大きな理由がありました。
 前土佐藩主・山内容堂の存在です。
 山内容堂は、心情的に幕府に対して少なからず同情している人物でしたので(その理由については、(我が愛すべき幕末)第1回「大名の終焉−山内容堂の抵抗−」をご覧下さい)、反幕行動を目論む土佐藩士達にとっては、その扱いが誠に厄介な存在でした。
 当時の土佐藩の権力は、藩主の豊範にではなく、実質的には隠居の容堂が握っていたため、次第に力を失いつつある幕府を見放し、薩長のように反幕的な行動をあからさまにとることが出来ない状況にあったからです。
 また、土佐藩は、「土佐勤王党の獄」と呼ばれる、武市半平太以下藩内の勤王派と称される多数の藩士達を処罰した事件を起こした経緯もあり、当時の藩内には政治的に使える人材が少なくなっていたことも、土佐藩の状況を一層悪くしていたとも言えましょう。

 このように、藩の権力者である容堂が、心情的には幕府に加担したいと思っていたことから、幕府の弱体化が日増しに表れていく中でも、土佐藩は藩として反幕的な行動をとることが出来ず、かと言って、当時の政治情勢上、幕府擁護側にまわるというような大胆な動きも取れない中途半端な状況に置かれていました。
 また、例え再度藩論を転換し、薩長と同じように反幕的な行動をとったとしても、結局はその先を行く薩長の風下につかなければならないことになるため、当時の土佐藩内は今後政治的にいかに進むべきかを迷っている、いわゆる一種の「迷走状態」にあったとも言えます。
 つまり、当時の土佐藩は、政策的にはかなり行き詰った状態にあったのです。

 これまで書いてきたように、慶応3(1867)年当時の土佐藩の置かれていた状況や立場は、非常に微妙なものだったのですが、そこに坂本龍馬や後藤象二郎が推進した大政奉還論が登場してきます。
 元々龍馬の大政奉還論の出所は、龍馬の師匠である幕臣の勝海舟にルーツがあると思われていましたが、近年では、実際は幕臣の大久保一翁から聞いた可能性が高いと言われています。(ただ、勝と大久保は旧知の間柄にありましたから、勝からも同様の話を少なからず聞いていたとも考えられますね)
 龍馬が政権を朝廷に返上させる大政奉還論を主張したのは、薩長両藩が目論む武力での倒幕を回避し、平和裏に事を収めたいがためでは決してありません。それどころか、龍馬は薩長両藩が進めていた武力での倒幕に協力する立場でいました。

 
はっきりと言いますが、坂本龍馬は武力倒幕論者であったことは間違いのない事実です。

 敢えて苦言を呈しますが、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響で、日本全国に龍馬ファンが急増したことにより、龍馬の実像を超えた虚像が大きく独り歩きしてしまったような気がしています。私自身、龍馬の功績については十分認めておりますが、龍馬をまるで平和主義者であったかのように偶像化するのは、いかがなものでしょうか。

 後述しますが、龍馬自身は、薩摩藩と長州藩が準備を進めていた武力倒幕をバックアップ(支援)する形で活動していましたが、その薩長両藩の武力倒幕路線が停滞し、変更を余儀なくされた状況に追い込まれたため、龍馬は転じて大政奉還運動に挺身することになります。
 龍馬がこのような動きに出たのは、これまで政局上出遅れていた土佐藩が、その存在感を示すためには、「幕府対薩長」という政治の対立軸に対し、薩長とは異なった別の政治路線を進む必要があると考えた末での行動であったと私は推測しています。
 つまり、龍馬は、土佐藩を政局上に浮上させるためには、幕府と薩長の間に割って入る、独自の第三勢力を形成する必要があると考えたのではないかということです。
 また、大政奉還論は、幕府に同情的な考え方を持つ、土佐藩隠居の容堂の機嫌を損なうこともないばかりか、薩長とは異なった政治路線を世に示すことで、土佐藩の存在価値を大いに高める可能性を秘めた妙案でしたので、当時藩の方針自体に行き詰まりを感じていた土佐藩の参政・後藤象二郎は、それを軸にして行動を始めました。そして、その運動の後押しを坂本龍馬は行ったのです。

 ここから大政奉還実現に向けた後藤の縦横無尽な活躍が始まるわけですが、前述したとおり、龍馬が後藤と共に大政奉還を熱心に運動したのは、第一には国のため、そして土佐藩のことを考えてしたことであって、決して平和裏に事を収めたいがためという観点からではありません。
 当時の龍馬は、政治的に一歩立ち遅れている土佐藩をいかにして薩長と並び立て、その間に割って入らせるかを日夜苦心していたと思われます。その点から言えば、幕末の風雲児である坂本龍馬も、国をそして故郷を想う一土佐人であったのです。(私はそんな龍馬が大好きです)
 龍馬も後藤も、武力倒幕に対抗して、平和的に事態を収束させたいがために大政奉還というものを推進したのではなく、土佐藩が政局のイニシアチブを握るための一つの方策として、大政奉還を捉えていた意味合いが非常に強いと言えるのではないかと私は考えています。

 しかしながら、この大政奉還の性質が、後世において大きく捻じ曲げられ、誤解を与え、理解しづらいものとなってしまったのには、種々様々な原因があると考えられます。
 まず、大政奉還論を受け取った側の幕府、つまり当時の将軍である徳川慶喜ですが、彼は非常に聡明な人物でしたので、この大政奉還を逆手に取ることで、自らを追い詰めようとしている薩長両藩を牽制し、また政局のイニシアチブを逆に奪還できるかもしれないと考えました。
 つまり、慶喜は自主的に政権を放棄する(投げ出す)ことによって、反幕行動を取る薩長に対し、武力倒幕のための大義名分を無くし、さらに後に移行するであろうと考えられた公儀政体制において、自らの地位や発言権、存在価値を高めようと考えたと思われます。

「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」

 慶喜はそのように考え、最終的に大政奉還に踏み切ったものだと私は理解しています。
 また、慶喜の大政奉還は、朝廷に対する一種の圧力行為だった面もあるのではないでしょうか。
 実質的に当時の朝廷には政治運営能力は無いに等しかったのですから、慶喜から政権を受け取っても、それを持て余すことは目に見えていました。
 また、その朝廷をバックアップしている薩長を中心とした諸藩の考え方も、決して一枚岩とは言えず、その基盤は脆弱なものでしたから、慶喜は一種意図的に政権を返上したとも言えると思います。(慶喜はいずれ朝廷は自分に泣きついてきて、また政権運営に係わられると考えていたと推測されます)

 以上これまで書いてきたとおり、未曾有の偉業と言われた大政奉還が、慶喜の手によって、いとも簡単に実現されたのは、提唱した土佐藩とそれを受けた慶喜の利害関係が共に一致していたからだと言えましょう。
 また、当時幕府を政治的に追い詰めようとしていた薩長両藩ですが、土佐藩の起こした大政奉還運動を内心は苦々しく感じていたとは思います。両藩は武力での蜂起を目指して、「討幕の密勅」の降下を公家の岩倉具視を通じて朝廷に対し画策していましたので、それは当然なことだったと言えるでしょう。密勅降下の前に幕府から政権を奉還されたのでは、武力倒幕のための「大義名分」が無くなってしまうからです。

 少し話が脇にそれますが、この「大義名分」という観念は、当時の有識者達の行動を理解する上で、とても重要な要素であったということを忘れてはなりません。
 彼らが大義名分を大切にし、そして自らの行動の指針として大義名分というものをとても大事に捉えていたのは、江戸時代中に培われ、熟成された朱子学的素養から来るものです。
 例えば、薩長が倒幕戦に踏み切った「鳥羽・伏見の戦い」ですが、幕府軍と比べると薩長両藩兵が圧倒的な寡兵であったにもかかわらず、幕府兵と衝突するに至ったのは、禁裏守護を自任する薩長両藩にとっては、兵を率いて上京しようとする幕府の行動は、それを討つための大義名分として相応しいと考えたからです。
 また、反対にその「鳥羽・伏見の戦い」の緒戦に敗れたとは言え、未だ大多数の兵力を掌握していたはずの徳川慶喜が、再び京へ攻め返すことを良しとせず、大坂から密かに軍艦に乗り、江戸に逃げ帰ったのは、錦の御旗が薩長側に翻った今、幕府に薩長を攻め返すための大義名分が無いと慶喜自身が判断したからでもあります。
 当時、大坂城内に居た将兵の多くは「大義は我にあり」と考えていたのかもしれませんが、少なくとも慶喜の心中はそうではなかったのでしょう。慶喜は水戸徳川家出身で、幼少の頃から朱子学上の大義名分論(水戸学)を叩き込まれて育っていますから、そう感じたのも無理ないことなのです。

 話が少し横道にそれましたが、後藤が周旋に奔走した大政奉還論は、薩摩藩家老の小松帯刀だけでなく、あの大久保一蔵(後の利通)までもが、後藤の堂々たる主張にいずれも説き伏せられています。
 確かに、後藤の大政奉還推進運動は、武力での挙兵を考える西郷や大久保にとって、少し余計な動きだったのかもしれませんが、薩摩藩としては表立ってその大政奉還論に反対する特段の理由などありませんでした。慶喜に政権を返上させるべく運動することは、薩摩藩に対しても大きな「利」があったわけで、薩摩藩としては、土佐藩の運動(つまり後藤や龍馬の動き)に反対する理由や邪魔立てまでする必要はなく、それを黙認せざるを得なかったと思います。
 つまり、薩摩藩にとっても、土佐藩の大政奉還運動は認めざるを得ないものであったのです。
(私はこの点において、龍馬暗殺の黒幕が薩摩藩ではないということを主張しています。つまり、龍馬を暗殺したとしても、薩摩藩に何の利益も生じえないからです)

 土佐藩が大政奉還運動を推し進めることになった辺りから、西郷や大久保は二段構えの体制を作ろうとしています。つまり、大政奉還が行われた場合と行われない場合を視野に入れ、行動していたということです。
 もし、大政奉還が行なわれない場合は、「討幕の密勅」を掲げて、幕府に政権返上を迫って追い込み、幕府がそれを拒否すれば、最終的に武力を用いた倒幕へと移行したでしょう。(これは龍馬も全く同じ考えです)
 また、もし大政奉還が行なわれた場合は、幕府を実質的に無力化することを視野に入れていました。(それが後に行われる「王政復古」と言えます)
 薩摩藩としては、あくまでも武力を用いた倒幕は最終的な手段であり、また、当時の薩摩藩関係者の認識では、それほど簡単に幕府を武力で倒せるとは考えていなかったと思います。
 よく考えてみれば、当時兵力少数であった薩長が、圧倒的兵数を誇っていた幕府を武力で討てるなど、そんな確証めいたものは何一つ無かったわけですから、それは当然のことであったと言えるでしょう。そのため、西郷も大久保も倒幕戦に入った場合は、長期戦を予測しています。
 結果、「鳥羽・伏見の戦い」という、たった一戦のみで、幕府は一気に滅亡への道を辿り、瓦解することになりましたが、それは薩長両藩としても予想外の出来事であったと言えましょう。
 このように幕府がたった一戦で倒れてしまったという結果論から、薩長は最初から武力倒幕にこだわり、いかにも武力倒幕が簡単に成し遂げられたという風に後世の我々は解釈・判断してしまいがちですが、実際はそうではなかったのです。

 またまた話が少しそれますが、関連のあることなので書きます。
 実は、「鳥羽・伏見の戦い」が生じた間接的な原因ともなった、庄内藩らによる「江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件」にも大政奉還と同様なことが言えるのです。
 この事件については、西郷が江戸の薩摩藩邸内に匿っていた浪士達を扇動し、江戸の商家に火付けや強盗などを行わせて騒乱を起こし、さも戦争を引き起こすために、幕府側を挑発したかのように言われていますが、これは大きな間違いです。なぜなら、当時の西郷や大久保が、自発的に対幕戦争を誘発するような策を取ることなどありえないからです。
 前述しましたが、当時兵数が絶対的に不足していた薩長が、圧倒的兵数を誇っていた幕府を武力で討てるなど、そんな確証は何一つ無かったのです。そのため、現に西郷と大久保の同志である吉井幸輔が、江戸の薩摩藩邸内に居住する者達に対し、「軽挙な行動は慎むように」と厳命した書簡も残っているほどです。
 結局は、この事件も大政奉還と同様に、幕府が「鳥羽・伏見の戦い」で敗北したという結果論から、導き出されたものなのです。
 大政奉還後、結果的に武力による倒幕がたった一戦で奇跡的に成し遂げられてしまったことが、当時の政治情勢や事件を正確に理解・把握しにくくし、武力倒幕や大政奉還の本質を大きく歪めてしまった大きな原因の一つであると私は考えています。

 最後に、もっと踏み込んで私自身の考えを言うならば、大政奉還が行われる・行われないにかかわらず、西郷や大久保の心中には、最終的には武力を用いた「倒幕」の二文字が念頭にあり、最終的にそこまで持って行く心積もり(持っていかなければならないという心構え)があったと理解しています。(それは革命を形骸化させないためです)
 ただ、当時の政局というものは、まるで天気のように日に日に変化していくような状態でしたので、「平和路線もしくは戦争路線のいずれを選ぶか?」といった単純な構図では計れませんでした。
 後年、薩長両藩が武力を用いて幕府を倒した結果論から、薩長の方針は「先に武力倒幕ありき」という単純な構図で語られてしまいがちですが、それはあくまでも結果論から導き出された過程論であり、歴史というものは本来そのように簡単に解釈できるものではないのです。
 これまで書いてきたとおり、大政奉還というものは、土佐藩、幕府、薩長両藩で三者三様、その受け取り方やその含んだ意図や意味が大きく異なっていたのですが、最終的に武力を用いた倒幕が容易に成された歴史上の結果論が、大政奉還の本来の性質をゆがめ、後世において、あたかも武力倒幕に対抗するための対立軸であったかのような誤解を与え、その本質を理解しづらくしたものと私はそのように解釈しています。




戻る
戻る