「鴻門の会」後記(1)
-薩長両藩の政局参加-


長井雅楽旧宅地(山口県萩市)



 今回「我が愛すべき幕末」に取り上げた話は、文久2(1862)年6月12日に江戸で行なわれた薩長両藩士による会合、後世に「鴻門の会(こうもんのかい)」と呼ばれた会合についてです。
 この会合については、よく小説等でも題材として取り上げられ、面白おかしく描かれているので、ご存知の方も多いと思いますが、今回は少しだけ私独自の解釈を加えて、この話を書き上げました。
 この話の出典は、昭和6年に発行された『偉人周布政之助翁伝』(妻木忠太著)からです。妻木氏は、『木戸松菊略伝』、『来原良蔵伝』、『前原一誠伝』など数多くの幕末の長州藩に関する著作を書いている非常に有名な研究家です。

 さて、私はこのエッセイの最初の部分に「周布は薩長両藩士の親睦と融和を目的としてこの会合を催し」と簡単に書きましたが、周布がこの会合を開こうと考えた理由には、非常に複雑な歴史的背景が含まれています。
 このことは「薩摩藩と長州藩の関係史」にも関わってくる重要な問題であり、なおかつその後の薩摩藩と長州藩との関係が悪化することにも関連がありますから、少し分かりやすくまとめて「後記」という形で書いてみたいと思います。


*****


 長州藩が幕末の政局に初めて積極的に足を踏み入れてきたのは、長州藩士の長井雅楽(ながいうた)という人物が、「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」という論策を引っさげて、京都の朝廷と江戸の幕府との間を斡旋し、公武合体運動を始めたことに始まります。
 航海遠略策の内容については、詳しく書き出すとキリがありませんので省略しますが、長井が提唱したこの論策は、声高に「攘夷」ばかりを叫ぶ当時の感情論が主体ではなく、「開国」を基礎とした非常に現実的な政策であったため、朝廷にも幕府にも非常に喜んで受け入れられました。特に朝廷の覚え目出度く、また朝廷との関係悪化に悩んでいた幕府にとっても「渡りに舟」的な政策であったため、朝幕間で非常に評判が良く、京・江戸において、一大旋風を巻き起こしたのです。
 例えば、長井の航海遠略策に感銘を受けた時の孝明天皇は、長州藩主・毛利慶親(後の敬親)に対して、


「国の風 吹き起こしても 天つ日を もとの光に かへすをぞ待つ」


 という歌を下賜し、また、公卿の正親町三条実愛は、実際の運動者であった長井に対して、


「雲居にも 高く聞こえて すめみ国 長井の浦に うたふ田鶴の音」


 という歌を与えたほど、朝廷は長州藩の公武合体運動並びに長井雅楽を褒めたたえたのです。これから考えると、当時の長井は「時の人」であったと言えるでしょう。

 さて、明治維新におけるもう一方の主役となった薩摩藩についてですが、薩摩藩が幕末の政局に絡んできたのは、長州藩よりは少し古い時期からです。
 安政年間に起こった第13代将軍・徳川家定の跡目相続問題、いわゆる「将軍継嗣問題」に薩摩藩主・島津斉彬が深く関わったことは非常に有名な話です。
 当時、斉彬は筆頭老中を務めていた阿部正弘や前水戸藩主・徳川斉昭、越前藩主・松平慶永(後の春嶽)ら有力諸大名とも親交が深く、積極的に政治活動を行ない、国政へと参加していました。
 しかし、斉彬が安政5(1858)年7月に急死すると、薩摩藩の国事運動は一時的に停滞しました。斉彬の跡目を継いだ島津家29代藩主の忠義は、当時19歳の若者に過ぎず、斉彬の実父である保守的な斉興が後見役として藩政を掌握したため、薩摩藩として積極的に中央政局に入っていくという行動は慎むようになったからです。
 しかしながら、その後見人であった斉興が亡くなり、忠義の実父である島津久光が藩政の表舞台に登場してくると、久光は斉彬の遺志と称して、中央政局に乗り出す計画を立てます。
 これがいわゆる島津久光の「率兵上京計画」と言われているものです。

 長井雅楽の登場、そして島津久光の上京計画、これら二つによって薩長両藩がようやく政治的に交わる時期がやって来るのですが、久光が藩兵を率いて上京する計画が京都や大坂に知れ渡ると、当時、航海遠略策一色であった京都の形勢は、次第に長井に不利なものとなっていきました。
 非常に大事なことなので書きますが、久光の公武合体策もその基礎は開国策が基になっていますから、長井の航海遠略策とは、さほど変わりはないのです。
 しかしながら、久光の上京計画を「倒幕のための上京」と誤解する人々や、それに大きな期待感を持つ人々、また、この上京を逆手に取って、一気に政局を倒幕の方向へと持っていこうと考える人々などが、薩摩藩内のみならず、他藩士、浪人・志士達にも数多く存在していたため、久光の方に人気が集まる結果となったのです。
 また、長井にとっては不幸なことに、同じ長州藩内でも、久光の上京を機に、長井の航海遠略策を潰そうと画策する連中がたくさんいました。吉田松陰の門弟であった久坂玄瑞を中心とした松下村塾出身の一派がそうです。彼らは長井の排斥を企てると共に、久光が上京してきた際には、薩摩藩内の倒幕派と手を組み、倒幕への挙兵に参加する計画まで立てていたのです。

 このような複雑な事情や要素が絡み合い、開国を基礎にした同じ公武合体政策であるにもかかわらず、久光と薩摩藩に対する世の人気は日に日に高くなる一方、長井の航海遠略策の人気は日に日に陰っていく結果となってしまいました。
 「両雄並び立たず」と表現すれば良いのでしょうか。久光の人気が上がれば上がるほど、長井の人気は下がっていったのです。
 なぜこのように形になってしまったのかを考えると、久光が兵力を率いての上京であったのに対して、長井は単身で入説していたこと、長州藩内にも長井の反対派が多数いたこと、当時長井を支持していた老中・安藤信正が江戸城の坂下門外で斬られたこと等、長井にとって非常に不利な条件が幾重にも重なったためであるとも言えるでしょう。

 このように長井に代わって、天下の注目を一身に浴びて上京してきた久光ではありましたが、彼は京都伏見の船宿「寺田屋」に集結していた薩摩藩内の倒幕派を「上意討ち」の名の元で鎮圧し、自らは倒幕の意志が無いことを天下に示し、公武合体運動に向けての第一声を上げることになります。
 また、ここで非常に重要なことですが、久光は寺田屋での倒幕計画に長州藩士が多数加担する予定であったことを後で知り、長州藩に対し、まず最初の悪感情を持つことになります。この久光が抱いた長州藩に対する悪感情は、後に色々な事件が重なったことで非常に大きなものとなり、そして最終的には会津藩と手を組んで、長州藩を京都から追い落とす(いわゆる「八月十八日の政変」)という結果に繋がっていくのです。このことについてはいずれ詳しく書くつもりでいます。

 さて、薩摩藩内の倒幕派が寺田屋で粛清されたことにより、久坂を中心とした長州藩内の反長井派は、運動方針を切り替え、しきりに公卿連中や藩内の上層部に向かって、長井の排斥を訴え、藩内の政策転換を目指し、藩として公武合体政策を破棄するように猛烈に運動しました。
 また、少し話がそれますが、久坂ら松下村塾出身者の者達が、ここまで長井の排斥にこだわり、執念を燃やしたのは、公武合体という政策に対する批判もさることながら、師である吉田松陰を幕府に引き渡した張本人は長井であると思い込み、大きな恨みを持っていたからです。
 しかしながら、実際は長井が松陰を幕府に引き渡したわけではなく、長井はただ幕府の命令を萩の長州藩首脳部に伝えただけに過ぎなかったのですが、そのことを久坂達は長井が松陰の身柄を幕府に売ったのだという風に理解していたのです。そのことは久坂ら松下村塾出身の門下生が連名で、家老の浦靱負(うらゆきえ)を通じて藩に提出した長井の弾劾書の一条に、

「吉田寅次郎は、赤心誠忠の者でありますから、藩政者の枢密にいる雅楽が助けるつもりなら、いかようにもはからいようはあるべきものを、むざむざと関東へ引き渡しましたこと」

 と書いていることを見ても明らかです。
 結局、この久坂らの長井排斥運動が功を奏したため、長井は政治の表舞台から失脚し、翌文久3(1863)年2月に、藩から切腹を命じられることになります。
 長井という人物は、ただ藩の命令に従い、朝幕間に公武合体政策を斡旋したに過ぎないのですが、最終的にその運動は藩主の許可を得ずに独断で起こしたかのようなことにされ、そして処分されるのです。長井にとっては、何とも非情・冷酷な処分であったと思います。
 歴史上、時代を最初に先駆ける先駆者というものは、得てして非業の死を遂げる場合が多いのですが、長井の死もそうであったと言えるのではないでしょうか。


(2)に続く



次へ
(2)幕府の公武合体運動


「我が愛すべき幕末」トップへ戻る