「鴻門の会」後記(2)
-幕府の公武合体運動-


 前回は長州藩士・長井雅楽が提唱した公武合体政策「航海遠略策」を中心に、長州藩と薩摩藩の政局参加の動機や時期などについて書きましたが、今回は話を薩摩藩のことから始めたいと思います。

 京都伏見の船宿「寺田屋」で藩内の倒幕派を粛正した島津久光は、その後、勅使として幕府に派遣されることになった大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛し、江戸に向かうことになります。
 幕末を扱った小説等では、この辺りの出来事が非常に簡単に端折られていて、入京した久光がすぐに大原を従えて江戸に向かったような書き方をされているものが多いのですが、実際はそうではありません。当初、朝廷は入京した久光の建白書を採用し、幕府に対して、老中の久世広周(くぜひろちか)を京都に呼び出し、幕政改革を速やかに実行するように求める方針であったのですが、その久世がなかなか上京して来なかったため、朝廷が勅使を江戸に派遣することになったのです。

 勅命が出ているにもかかわらず、なぜ老中の久世がすぐに上京しなかったのかについては、色々と諸説ありますが、これはおそらく幕府の老中達の間にあった一種の「朝廷アレルギー」が大きな原因であったと言えそうです。
 遡ること安政5(1858)年1月、日米修好通商条約締結のための勅許を得るため、時の筆頭老中であった堀田正睦(ほったまさよし)は、江戸から京都に向かい、勅許を得るべく朝廷に対して色々と運動したのですが、結局は勅許は下りず、そのことで政局は混乱し、堀田は急速にその力を失って政治的に失脚することになりました。
 その堀田の跡を継いだ形で登場してきたのが彦根藩主・井伊直弼です。
 井伊は大老に就任するや、朝廷の勅許を得ずに無断で条約の調印を行ない、それに反対した勢力を強権を発動して処罰するという、非常に荒っぽい手段を取りました。(これが「安政の大獄」と呼ばれているものです)
 このように、堀田が京都で勅許を得るために非常に苦労したことや、その後、井伊の登場で幕府と朝廷との関係がさらに悪化したという苦い経験が、依然として幕府関係者の間に色濃く影響し、一種の朝廷に対するトラウマとして残っていたのではないでしょうか。
 つまり、平たく言えば、

「京都に行けば、堀田老中がそうであったように、また無理難題・難問を吹っ掛けられて、にっちもさっちも行かなくなる……」

 という、一種の朝廷へのアレルギーがあったことが、久世がなかなか上京しなかった大きな原因の一つであったと私は思います。
 また、これはもう一つの原因と言えると思いますが、幕閣の望む公武合体とは、所詮は幕府主導による公武合体でしかないのです。これはこの後の幕末の政局にも大きく左右してくる問題ですので、少し長くなりますが出来るだけ簡単に書いてみます。
 元々は幕末の動乱期まで、幕府が行なう政治に対して、朝廷が口を挟んだり、ましてやいちいち朝廷の許可が必要などということは、長い江戸幕府の歴史の中でも一度も前例がありませんでした。なぜならば、江戸幕府の政治体制というものは、いわゆる朝廷からの委任政治であり、幕府は朝廷から政務一切を任されている形になっていたので、ある一つの政策を行なうのに朝廷の許可がいることなど無く、その必要性も無いと考えられていたからです。
 しかしながら、幕末という動乱の時期の時代の流れは、幕府が今まで通りに独断で政治を行なうことが出来なくなるような状況になっていました。その原因は大きく分けると二つの要因から構成されていると思います。


 一つ目は、「尊王」という概念が、朱子学や水戸学などの学問の影響で、長い年月の間に純粋培養され、広く大名から一般庶民に到るまで広がったこと。

 二つ目は、幕府の対外政策に対する「だらしなさ」が、人々の幕府に対する失望感を非常に大きくし、逆に朝廷への期待感を大きくしたこと。



 大きく分けるとこの二つの要因が重なり合ったことで、京都の朝廷の権威が幕末期に一気に高められる結果となり、幕府が独裁で政治を行なうことの出来ないような状況に陥った原因であると私は考えています。

 しかしながら、時代の流れがこのような形で朝廷主導に政治が動こうとしていることに反発をしたのが、先程書いた大老の井伊直弼です。
 井伊は元来幕府の政治に関して朝廷から口出しをされる必要もないし、いちいち許可を得る必要もないという見地から、無断で日米修好通商条約の調印を行ない、それに反対した勢力を「安政の大獄」という一大事件を起こして処罰するなど、長い年月をかけて生み出された一つの時代の流れに逆行する行動を起こしました。
 正直言いますと、私は井伊直弼という人物を買っていません。
 その理由の一つは、幕府の独裁政治が陰りを見せてきたこの時期に、時代の流れに逆行するやり方を行なって、朝廷を無視する政治手法を執り、そして結局はそのことで幕府失墜の原因を作った張本人であると考えているからです。
 例えば、井伊が大老として登場し、強権を発動する前までは、諸大名並びに全国各地の有識者達は、幕府を中心に、いかに欧米列強諸国からの圧力が迫るこの国難をどう対処しようかと考えました。薩摩藩の島津斉彬などは、その典型的な人物の一人です。
 島津斉彬を代表とした諸大名や全国各地の有識者達が、「幕府を中心」にしてこの国難を乗り切ろうと考えたことから、「将軍継嗣問題」という、将軍家の跡目相続問題が起こったのです。つまり、幕府を中心に国難を乗り切っていくためには、強いリーダーシップを持った人物を将軍にする必要がある、と考えた末に起こった運動が「将軍継嗣問題」なのですから。この段階では、誰もが「まず、幕府ありき」の政治対策を考えており、幕府が不要であるなどということを考える人間も少なかったのです。

 しかしながら、井伊が大老として登場し、そんな人々の意向を一切無視するかのように非常に荒っぽいやり方をしたことが原因で、その反動が生まれました。すなわち、「幕府不要論」、つまり「倒幕思想」なるものが生まれ、その動きはその後ずっと続いていくことになり、最終的に幕府は終焉を迎えることになるのです。
 政治というものは時代時代のニーズにあった形に自然と変動していくのが普通であるにもかかわらず、時代の流れを逆行するような行動を取った反動が、幕府政治の終焉の原因を作ったのだと私は考えます。今までの長い日本の歴史を見ればよく分かりますが、時代の流れに逆行しようとすると、必ずそのしわ寄せや反動がやってくるものなのです。
 これらから考えると、幕府にとっては、井伊の犯した罪は非常に重いものと断ぜざるを得ませんし、井伊は幕末の政局の混乱を招いた大きな原因を作ったと言っても過言ではないでしょう。

 少し本題から外れてしまいましたが、結局、井伊はその反動で桜田門外で横死することになり(「桜田門外の変」)、幕府は井伊が行なった恐怖政治を反省した結果、政治方針を一大転換して、朝廷と幕府が一体となって政治を行なおうとする「公武合体」を表看板に掲げて運動しました。
 しかしながら、依然として幕府内部では、政治に関して朝廷から色々と横槍を入れられるのを快くは思っていなかったことは事実です。老中の久世が朝廷の命にもかかわらず上京を渋ったのは、こういった点に大きな原因があったとも言えましょう。
 ただ、幕府の独裁政治は250年以上もの長きに渡って慣例として続いていたのですから、幕閣の人々の頭がすぐに切り替わらなかったのは、致し方の無いことであったと言えるかもしれません。
 また、幕府が朝廷に対して一段と拒否反応を示したのは、朝廷の周囲に外様大名(薩摩や長州藩)が絡み、政治に参画するようになってきたことにあるとも思います。
 幕府はどうしてもそのことを容認、つまり認めたくはないのです。外様大名が政治に口出ししてくることを容認出来ないし、どうしても拒否反応が出てしまうのです。
 島津久光という人物が朝廷と幕府との間を取り持つように、公武合体運動を熱心に行ない、色々と懸命に努力しても、幕府側が真摯にその運動を受け入れようとはしませんでした。これは後のことになりますが、このような幕府内にあった、諸大名が国政に参画してくることへの拒絶・拒否反応が、久光が提唱した「参預会議」を崩壊させた原因にも繋がってくることになると私は考えています。

 またもや話はそれていきますが、私自身は島津久光が文久3(1863)年末に提唱した「参預会議」というものは、幕府政治における大きなターニングポイントであったと考えています。
 このことについても詳しく書き出すとキリがなくなるので簡単にしか触れませんが、この「参預会議」というものを簡単に説明すると、将軍を中心とする幕府側の有力者、時の老中と島津久光を始めとする有力諸大名関係者数名が集まり、合議をもって日本の政治を運営していこうという政治システムであったのですが、当時の幕府側の有力人物であった一橋慶喜(後の徳川慶喜)や幕閣が、その制度に対して非協力的な態度を取ったため、結局この「参預会議」はすぐに破綻を迎えることになったのです。
 私が思うに、「参預会議」というものは、幕府が滅亡を逃れるために残された一つの大きなチャンスであったと思います。にもかかわらず、この制度を慶喜や幕閣が崩壊するように仕向けたことは、幕府自らの手でその首を絞め、そして時代の流れを倒幕へと向かうような道筋を付ける結果となったのではないかと私は考えています。

 ついつい話がそれてしまいましたが、久光の望む公武合体とは、朝廷と幕府がしっかりと結びつき、そしてその上で薩摩藩などの有力な諸大名が政治の中枢に入り、国政に参画出来る政治システムを思い描いていたわけなのですが、幕府の望む公武合体とは、朝廷と幕府が結びつくまでは同じですが、あくまでも幕府がその主導権を握って政治を運営するという形での公武合体であったのです。ですから、一言で「公武合体」と言っても、その思惑は立場が変われば様々であったと言えましょう。
 久光が最終的に幕府を見放し、そして倒幕を決意したのも(いや、久光の心情を考えると、そうならざるを得なくなったとも言えますが)、こういった幕府の旧態依然のいつまでも変わらない体質に対し、嫌気がさしたことが大きな原因であったと私は考えています。


(3)に続く



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