「鴻門の会」後記(6)
-大久保の畳回しについて-


 最後になりましたが、エッセイのクライマックスに描いた大久保一蔵(利通)の畳回しについて書きたいと思います。
 今回参考にした『偉人周布政之助翁伝』には、大久保が畳をめくって回すシーンは、

「一蔵また畳を撥き、之を掌上に弄して其の力を示した」

 という言葉で表現されています。
 つまり、大久保が力を誇示するため(つまり、長州藩士を威圧するため)に畳を回したという風に書かれているのですが、私はその原文のままの意味でエッセイを書きませんでした。周布が堀を斬ろうとして剣舞を舞い、また同じく来島又兵衛がいつ斬り合いになっても良いように、座を睥睨しているような非常に殺気だった状況の中で、大久保が果たして自分の力を誇示するためだけに、畳などを回すかという疑問が残ったからです。また、畳などを回して、相手を威嚇しようなどと考えること自体がちょっとおかしな話ですよね。

 私のエッセイを読んで頂ければ分かりますが、大久保はその前に、周布に暴言を吐く堀を一喝してたしなめるところが出てきます。当時は島津久光も江戸に入ったばかりで、幕政改革要求はこれから正念場を迎える大事な時期でしたから、大久保は長州藩士との間で、もめ事を起こすつもりはさらさら無かったと思います。そういう大久保の考え方は、暴言を吐いた堀を一喝するところに表れていると思います。
 また、大久保という人物は、堀のように少しお調子者のような性格ではなく、何事においても、いたって冷静に判断し行動できる人物です。ですので、大久保の畳回しという秘芸披露は、おそらくこの殺気だった場を収拾させるために、わざと突飛な行動にでたのではないかと私は解釈しました。
 いかがでしょうか? この解釈は?
 私にはこの方が大久保らしいし、大久保ならではの考え方であるような気がします。

 最後に、一つ疑問であるのは、「大久保は、ほんとうに畳などを回すことが出来たのだろうか?」ということについてです。これは「作り話ではないか?」とよく言われるのですが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、大久保の畳回しの件について、次のような興味深いことを書かれています。


「大久保は少年の頃から体質虚弱で、武芸はその長ずる所ではなかったというのに、畳を掌上に弄して見せるようなことをしたのだろうかと疑う人があるかも知れないが、大久保は少年の頃、からだが弱いために、健康のために柔術を学んだという事実がある。薩摩藩で行なわれた古流の柔術には畳の下をくぐったり、道場にしいてある四、五十枚の畳をひっぺがえして、またたく間に一ヵ所に積み上げたりする術があったことを、僕は父から聞いている。大久保の示したのはこの術の一端だったろうと思うから、僕は信じるのである。」
(『西郷隆盛第三巻』より抜粋)



 海音寺氏の話によると、大久保の畳回しの秘芸は、薩摩の古流の柔術から出たものと解釈されているのです。
 ただ、残念ながら、私は薩摩の古い柔術までの知識が無いので、これについてはこれ以上詳しく書くことが出来ないのですが、大久保の秘芸が柔術の技から出ているとなれば、こんなに興味深く、そして面白い話はないと思います。

 これまで六回に渡って、「鴻門の会」後記と称して、薩長両藩の政局への参加から、そしてその後の確執が芽生え始めるきっかけ、また、大久保の秘芸についてまで書いてきました。
 歴史というものは、どの事件にもそれを裏付ける背景というものがあります。薩摩と長州が仲違いをするのも、ちゃんとした理由がありますし、そして薩摩がその後会津藩と手を結び、最後には会津藩から離れることになるというのも、れっきとした理由なり原因なりがあるのです。
 こういった事情はなかなか表には出てこないものですが、歴史の面白さとは、その隠れた背景を勉強することでもあると、私はそう感じてなりません。



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