「鴻門の会」後記(5)
-鴻門の会について-


 今回のエッセイ「鴻門の会(こうもんのかい)」の中では、薩摩藩の堀小太郎(後の伊地知貞馨)が、周布に対して暴言を吐く部分が出て来ますが、これは前回までに書いたとおり、江戸を抜け出した慶親に不満を持っていた当時の薩摩藩士達の心情を窺い知れる部分になっているのではないかと思います。
 周布は堀の言葉に対し、現代風に言うと「キレて」しまい、剣舞を舞って堀を斬ろうと試みたわけですが、それに割って入ったのが同じ長州藩の小幡彦七であったことはエッセイの中でも書きました。
 この光景が、司馬遷の『史記』の中に描かれている「鴻門の会」の様子と似ていたことから、後世この会合は幕末版「鴻門の会」と呼ばれることになったわけです。
 『史記』の中に描かれている鴻門の会については、作家・司馬遼太郎氏の小説『項羽と劉邦』の中にも描かれていますので、ご存知の方も多いとは思いますが、念のため、私が簡単に説明いたします。

 項羽と劉邦という中国史における二大巨人が覇を争った時代は、秦の皇帝であった始皇帝が亡くなって以後の話です。
 秦の始皇帝の死後、天下は麻のように乱れ、打倒・秦を旗頭として、楚という国の懐王(かいおう)の元へ諸侯が集結してきました。項羽も劉邦も、その懐王の元へ集結した諸侯の一人です。
 ここで楚の懐王は二人に対して、

「最初に秦の本拠地である関中の地に入った者を、その地の関中王にしよう」

 と宣言しました。
 項羽と劉邦はお互いに競って関中を目指すことになるのですが、項羽は有名な函谷関(かんこくかん)を通って関中に入る北のルートを、劉邦は武関を通って関中に入る南のルートを通りました。
 当時は、劉邦に比べて圧倒的に項羽が大軍勢を支配していたので、誰しもが関中への一番乗りは項羽であると思っていたのですが、実際フタを開けてみると、先に関中に入ったのは劉邦の方でした。項羽軍は関中までの道のりで敵の降伏を許さず、力攻めに次ぐ力攻めを行なったため、敵も必死の抵抗を試みることとなり、項羽軍は関中に入るのに非常に手間と時間がかかったのです。
 反対に劉邦軍は敵の降伏を寛大に許したのと、張良という稀代の策士が幕下にいたこと等により、項羽よりも先に関中の地に入ることが出来ました。
 しかし……、遅れて関中に入った項羽は、烈火の如く怒りました。項羽は「自分こそが関中王となるべき者」と考えていたので、劉邦の関中一番乗りはどうしても我慢ならなかったのです。

 当時は圧倒的に項羽の勢力が大きかったため、劉邦はその項羽の筋違いとも思える怒りに対し、何も抵抗することが出来ませんでした。
 項羽は軍師である范増(はんぞう)の意見を入れて、劉邦を暗殺しようと企み、秦の都・咸陽から少し離れた「鴻門(こうもん)」という場所に劉邦を呼びつけました。范増はこの鴻門での会見の最中に、項羽の従弟の項荘という者に対し、「余興の剣舞を舞って、その最中に劉邦を斬れ!」と命じました。范増は項羽の天下取りのためには、劉邦が最も邪魔になる存在であると感じていたからです。
 しかし、劉邦の知恵袋であった張良と非常に親交が深かった項羽の叔父の項伯は、その范増の策略を阻止せんがため、項荘と劉邦の間に入って剣舞を舞い、劉邦暗殺を食い止めようとしたのです。
 この場面については、6月12日に開かれた薩長両藩士の会合の様子と非常によく似ていますよね。周布が堀を斬ろうとして剣舞を舞い、それを見た小幡が剣舞を舞ってそれを阻止しようとしたところが良く似ているのではないかと思います。
 このようなことから、この薩長両藩士の会合は、後世、幕末版「鴻門の会」と呼ばれるようになりました。
 ちなみに、中国版「鴻門の会」での劉邦は、策士・張良の機転で鴻門での危機を脱し、最終的には項羽を打ち破って、漢王朝を樹立することになります。


(6)に続く



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