(西郷隆盛の生涯)将軍継嗣問題から西郷の入水まで


島津斉彬陣屋跡(写真)
斉彬が死の直前まで兵を調練していた天保山の陣屋跡(鹿児島市)


【将軍継嗣問題】
 安政元(一八五四)年三月三日、幕府はアメリカとの間に「日米和親条約」を締結しました。
 その前年、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが浦賀に来航し、武力を背景とした強圧的な開国要求を日本に対して行なっていました。
 江戸幕府の第三代将軍・徳川家光の時以来、鎖国を国是としてきた日本にとって、ペリーの来航は幕府関係者や朝廷、そして諸大名に大きな衝撃を与えました。また、ペリーに引き続き、ロシアからはプチャーチンが長崎に来航し、幕府に対し開港通商を迫るなど、日本は諸外国からの開国要求の嵐に巻き込まれることになったのです。
 これら諸外国からの外圧に対し、幕府は確固たる方針や対策を示せず、その場しのぎの対応で切り抜けるような状態であったため、幕府は半ば強制的に、アメリカ、ロシア、イギリス、オランダといった諸外国との間に和親条約を調印させられる結果となりました。
 薩摩藩主・島津斉彬は、このような幕府の弱腰外交に対し、まず国防の充実が急務であることを建言し、またこの国難にあたり、諸大名や幕閣の意見をまとめられる強力な指導者が必要であると考えました。当時の第十三代将軍・徳川家定は心身共に虚弱で、このような緊迫した国内外の情勢に対し、強いリーダーシップを発揮して立ち向かえるような人物ではなかったからです。そのため、斉彬は水戸徳川家出身で当時一橋家の当主であった一橋慶喜(後の徳川慶喜)に白羽の矢を立てました。
 当時の慶喜は、諸大名の間でも聡明かつ英明と噂されていた名高い人物であり、斉彬自身も慶喜のことを高く評価していました。斉彬は慶喜に将軍家定の跡を継がせることにより、慶喜を中心として日本を一つにまとめ上げ、大きな国難に対処しようと考えたのです。
 斉彬は老中の阿部正弘や土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ)(後の容堂)、越前福井藩主松平慶永(まつだいらよしなが)(後の春嶽)、宇和島藩主伊達宗城といった雄藩の大名たちと連携し、慶喜を次期将軍に就任させるべく運動を開始しました。
 また、斉彬は自らの養女で、将軍・家定の正室であった篤姫(あつひめ)(後の天璋院(てんしょういん))にも協力を求め、大奥方面からも慶喜を押すことを画策しました。
 当時、斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷は、この「将軍継嗣問題」にも深く関わり、斉彬の指示を受け、諸大名や朝廷方面に対する運動者として大いに働きました。


井伊直弼銅像(写真)
井伊直弼銅像(彦根城内)
【斉彬の死】
 第十三代将軍・徳川家定の跡目相続を巡る問題、いわゆる将軍継嗣問題は、当初斉彬が加担していた一橋慶喜を擁立する一橋派が優位に事を進めていましたが、それに対抗して、徳川御三家の一つ、紀州藩主で当時まだ十代半ばであった徳川慶福(とくがわよしとみ)を将軍に推そうとする動きが出てきました。その運動の中心人物は、紀州藩の付家老・水野忠央(みずのただなか)で、慶福擁立派は一橋派に対して紀州派と呼ばれましたが、水野は「血筋から言えば、次期将軍には一橋様よりも紀州様の方が適任である」という、血統の観点からの将軍継承論を展開していきました。
 また、水野は政治的に力を有していた大奥に入説したことから、大奥からは慶福を擁立しようとする動きが活発化してきました。一橋慶喜の実父、前水戸藩主・徳川斉昭が、当時大奥に大変評判が悪い人物であったことが、一橋派にとって不利に働いたのです。
 このように勢いを得た紀州派は、ここで最大の秘策を使いました。彦根藩主の井伊直弼を幕府大老に就任させるよう画策したのです。
 井伊直弼は、彦根藩第十一代藩主・井伊直中の第十四男として生まれたため、幼い頃から非常に悪い待遇の元に育ち、他家への養子のあてもなく、藩から捨扶持をもらいながら質素に生活していました。井伊はそんな惨めな境遇を嘆くかのように、自らの住む邸宅を埋木舎(うもれぎのや)と名付け、一生涯世に出られない自分の悲運を嘆いていました。
 しかし、そんな直弼に幸運が巡ってきました。藩主に就いた兄たちが次々に死去し、奇跡的に彦根藩主の座がまわってきたのです。
 紀州派の中心人物である水野忠央は、そんな井伊の存在に目を付け、井伊の腹心であった長野主膳と共謀し、安政五(一八五八)年四月、井伊を幕府大老に就任させることに成功しました。
 そして、大老に就任した井伊は、強大な権力のもと、当時の懸案事項であった将軍継嗣問題について、慶福を擁立する紀州派有利に展開させ、半ば強引に将軍継嗣を慶福にすることを内定させました。
また、井伊は朝廷の勅許を得ず、安政五(一八五八)年六月、アメリカとの間に「日米修好通商条約」を無断で調印したのです。
 このような井伊の強引かつ横暴な政治手法に対し、不満を持つ人々が多数出てきましたが、井伊はそれら反対勢力を力でねじ伏せようとしました。
 当時、薩摩でそのような混沌とした政治情勢を見守っていた斉彬は、井伊に対抗するために思い切った秘策を実行に移そうとしました。それは斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷から朝廷守護及び幕政改革の勅許を得て、井伊を中心とする幕府に対し、抜本的な政治改革を迫ろうという壮大な計画でした。斉彬は井伊の強権政治を目の当たりにし、最早尋常の手段ではこの事態を打開できないと考えたのです。
 西郷は斉彬からの指示を受け、薩摩を出発して福岡藩主・黒田斉溥を訪ね、斉彬の主命を伝えた後、京都、大坂に入り、斉彬の率兵上京計画の下準備のために奔走しましたが、その時、薩摩では衝撃的な出来事が生じていました。鹿児島城下の天保山で兵を調練中であった藩主・斉彬が、突然発熱して体調を崩し、急激に病状が悪化して、安政五(一八五八)年七月十六日、急逝したのです。


【西郷の入水】
 西郷にとって、藩主であり、師であり、恩人でもあった斉彬の突然の訃報は、西郷に大きなショックを与えました。
 将軍継嗣問題において薩摩藩と朝廷との橋渡し役を務めた京都清水寺成就院の住職・月照(げっしょう)に宛てた西郷の手紙には、「斉彬公という大きな船を失い、ただ孤島にたたずむような状態で、如何ともしがたく、残念極まりありません」と書かれており、西郷の失意の大きさがうかがわれます。
 西郷は斉彬の訃報に接し、薩摩に帰り、斉彬の墓前で切腹し、殉死することを考えましたが、月照にそのことを諌められ、再び国事に奔走することを決意したのです。
 ただ、当時の政治情勢は刻一刻、益々悪化の一途をたどっていました。井伊大老は幕府の方針に反対する大名や公卿たちを謹慎処分にし、その他、幕府に批判的な意見を持つ有志者を一斉に捕縛するよう命じたのです。
 これが世に言う「安政の大獄」です。
 この安政の大獄を始めとする井伊大老の恐怖政治の始まりにより、西郷の良き理解者であった月照もその身が危険となりました。西郷はそんな月照を救うべく薩摩に匿うことを計画し、共に京都を脱出した後、先行して薩摩に帰国し、月照を受け入れる準備を整えようとしましたが、斉彬が急死したことにより、薩摩藩内の事情は大きく変化していました。
 西郷は藩政府の要人たちに対し、月照の保護を熱心に求めましたが、藩政府の態度は非常に冷たいもので、幕府のお尋ね者である月照の受け入れを拒否したのです。
 西郷はそれでもめげず、月照の保護を求め続けましたが、幕府と事を構えることを嫌った藩政府の態度は、とうとう変わることがありませんでした。
 西郷がそのような努力を続ける中、月照は筑前浪人の勤皇志士、平野国臣に付き添われて、困難な道中を乗り越え、はるばる薩摩までやって来ました。
 しかし、藩政府は西郷に対し、非情にも月照を藩外に追放するよう命じたのです。

「斉彬公さえ生きておれば……」

 西郷は歯噛みするような思いで、この命令を聞いたのではないでしょうか。
 しかし、薩摩藩士として、藩の命令に背くわけにもいかず、かと言って、月照を幕府の捕方が迫る藩外に追放し、見捨てることも、義理がたい西郷にとって、出来るはずもなかったのです。
 このような事態に絶望した西郷と月照は、二人で相談し、相伴って寒中の海に身を投じました……。
 安政五(一八五八)年十一月十六日、西郷が三十歳の時のことでした。






戻る      次へ
戻る 次へ

メニューへ