(西郷隆盛の生涯)奄美大島潜居から西郷の召還まで
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島津久光肖像(原田直次郎画)尚古集成館蔵 |
【奄美大島潜居】
冬の鹿児島錦江湾の冷たい海に身を投じた西郷と月照でしたが、月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生しました。
一人だけ生き恥をさらすようなことになった西郷は、深く悩み、そして苦しみました。そんな苦悩する西郷の姿を目の当たりにした家族は、西郷が月照の後を追い、自害しないように、西郷の身の回りから刃物の類を一切隠したと伝えられています。
西郷はこの自殺未遂から約一ヶ月後に書いた手紙の中で、「私は今や土中に埋まる死骨のようなもので、忍ぶべからざる恥を忍び、生きております」と、その心境を記しています。西郷は自らを土中に埋まる屍に例えるほど、深い悲しみと苦しみの中に沈んでいたのです。
そんな状態の西郷に対し、藩政府は奄美大島で身を隠すように命じました。
この藩の命令は、いわゆる流罪としての遠島ではありません。よく西郷は二度の島流しにあったと言われますが、この一回目の奄美大島行きは、藩から年六石の扶持米が付いていますので、遠島という処分ではありません。藩は幕府のお尋ね者となっていた西郷を保護するために、奄美大島行きを命じたのです。
このようにして心に大きな傷を負った失意の西郷は、翌安政六(一八五九)年一月、奄美大島へと旅立ちました。
奄美大島での西郷の生活には数多くの逸話が残されていますが、最も有名なものを一つを紹介します。
奄美大島と言えば、当時貴重品であったサトウキビの生産地であり、それから精製される黒糖は薩摩藩の大きな収入源になっていたことから、サトウキビの生産農家に対して、畑のサイズに準じて、各々負担する生産高(ノルマ)が割り当てられ、非常に厳しく、そして過酷な取り立てが行われていました。
ある日、そのノルマを達成出来なかった農民たちが島役人に拘束され、激しい拷問を加えられていることを知った西郷は、自ら出向いて在番役人の相良角兵衛に面会を求め、農民たちを解放するように迫りました。西郷は常日頃から役人の非情なやり方に憤りを感じていたからです
しかし、常日頃から役人風を吹かせて傲慢になっていた相良は、西郷の意見に耳を貸さなかったのです。
そんな相良の態度に腹を立てた西郷は、
「おはんが態度を改めんのなら、おいにも考えがありもす。直接藩主公に対して事の顛末を報告するから覚悟されよ!」
と言い放ち、役所を後にしました。
そんな西郷の態度に驚いた相良は、態度を豹変し、西郷の要求通り農民たちを解放したのです。
郡方での勤務時代においても書きましたが、西郷という人は、生来愛情深く、そして優しい性格の持ち主です。奄美大島においても、病人や老人が困っているのを見ては、自分の扶持米を分け与えることも多かったそうです。このようなことから、西郷は自然と島民たちに慕われるようになり、大きな信頼を得ることになりました。
【島津久光の上京計画】
西郷が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく転換しようとしていました。
強圧的な恐怖政治を行った幕府大老の井伊直弼は、万延元(一八六〇)年三月三日、江戸城桜田門外で、水戸藩士を中心とした集団に白昼襲われ、殺害されるという事件が起こりました。
世に言う「桜田門外の変」です。
この井伊大老の暗殺により、その後の幕府は急速に求心力を失いました。
井伊大老の失政を反省した幕府はこれまでの方針を一変し、幕府単独で国政を運営していくことに限界があると考えるようになり、京都の朝廷と融和し、互いに協力して政治を行う「公武合体運動」に力を注ぐようになりました。
しかしながら、幕府の公武合体運動の前途は多難でした。共に力を合わすべき相手の朝廷が、幕府に対し、諸外国と結んだ条約の破棄を求めたからです。このように幕府の公武合体運動は、その当初から困難を極めました。
そんな混沌とする政治情勢の中に颯爽と登場してきたのが、後に薩摩藩と共に倒幕運動の中心となった長州藩です。
長州藩は、長州藩士・長井雅楽(ながいうた)が提唱した「航海遠略策」という公武合体政策を藩論と定め、幕府と朝廷の間を取り持とうとする動きに出ました。長井の航海遠略策は、朝廷の求める破約攘夷は現実的に難しいことをあげたうえで、今は積極的に外国と開国通商を行うことによって国力を高め、国威を上げることが必要であると論じるなど、非常に理にかなった堂々たる論策であったため、これまでの公武合体運動に行き詰まりを感じていた幕府は、その運動に飛びつきました。幕府にとって、長州藩の仲介運動はまさに渡りに船だったのです。
また、長井の提唱した航海遠略策は、現実的にも実行可能な正論であったため、時の孝明天皇以下、朝廷の公卿たちの受けも大変良く、京都において一大旋風を巻き起こしました。
一方、西郷が奄美大島に居て不在の薩摩藩ですが、斉彬の死後、新しく藩主に就任したのは、斉彬の異母弟、久光の子の忠義でした。
藩主に就任した忠義は、藩政の後見人であった祖父の斉興が亡くなると、当時臣籍に下っていた状態であった実父の久光を藩主待遇として身分を押し上げました。忠義は実父を家臣と同じ待遇のままにしておくのは、子として孝道にそむくと考えたのです。
久光という人物は、保守的で頑迷とも言える性格ではありましたが、人物の押しは堂々としており、国学を中心にして学問の造詣も深く、前藩主の斉彬が目をかけていたほど慧眼ある賢い人物でしたので、自然と藩の実権は藩主の忠義ではなく、久光が握るようになりました。
そのような状態にいち早く目を付けたのが、西郷の同志であり、盟友でもあった大久保です。大久保は西郷が奄美大島に潜居している間、同志たちのまとめ役となっていましたが、藩政の実権を握りつつあった久光へ接近することを試みました。大久保は自分たち若手の藩士が藩政に影響を持つには、久光の力が必要であると考えたのです。一説では、久光の好きな囲碁を通じて久光に取り入ったと伝えられています。
そしてまた、藩政の実権を握った久光自身も、兄の斉彬と同様に、朝廷と幕府の間を周旋したいという素志を抱いていたことから、久光は意のままに動く腹心たちを藩政の中心に据える藩政改革を行い、国政に乗り出す決意を固めました。久光は兵を率いて京都にのぼり、朝廷から幕政改革の勅許を得て、幕府に対して政治改革を迫る。つまり、兄の斉彬譲りの率兵上京計画を実行に移そうと考えたのです。
【西郷の召還】
久光に登用され、寵臣としての地位を確立しつつあった大久保は、久光の率兵上京計画を実現させるにあたり、西郷を奄美大島から呼び戻そうと考えました。西郷は斉彬のもとで同計画の実現に尽力した経験があったので、大久保は西郷の力が必要であると考えたのです。
大久保の西郷召還の願い出は久光に聞きとげられ、文久二(一八六二)年二月十一日、西郷は約三年ぶりに本土鹿児島の地に戻ることになりました。
しかし、大久保の期待とは裏腹に、奄美大島から帰還した西郷は、久光が兵を率いて上京することに反対しました。西郷は、斉彬が計画した当時と現在とではその置かれた状況が違うこと、兵を率いて上京する準備が十分に整っていないこと、久光が京都に入れば変事が生じかねないこと等を理由に、大久保だけでなく、久光に対しても、面と向かって堂々と反対意見を述べたのです。一説によると、西郷は久光に対して、「地五郎(じごろ)(一般には「田舎者」と訳されています)」と言ったと伝えられています。それほど西郷の反対意見は激しいものだったのです。
久光としては、そんな西郷の態度を快く思うはずがありません。兄の遺志を受け継ぎ、颯爽と国政に乗り出そうと計画したにもかかわらず、たかが一藩士にあからさまに反対されたのです。この時から、久光と西郷の長くそして深い確執が始まったと言えます。
一方、大久保は予想外の西郷の態度に戸惑いましたが、根気よく西郷を口説き、久光の率兵上京計画への協力を求めました。そんな目的に向って邁進して止まない大久保の態度に、西郷は態度を軟化し、計画に協力することをようやく承諾したのです。
こうして文久二(一八六二)年三月十三日、西郷は久光が出発する三日前に誠忠組の同志である村田新八と共に薩摩を先発しました。
西郷に対し久光から与えられた命令は、「肥後の形勢を視察し、下関にて久光の行列の到着を待て」というものでしたが、西郷が下関に到着すると、予想以上に情勢は激しく揺れ動いていました。久光が実行しようとしている率兵上京計画を薩摩藩が武力を背景にした倒幕に踏み切るものと考えた全国各地の脱藩浪士や志士、薩摩藩内の急進派藩士たちが、続々と京都、大坂に集結しつつあり、不穏な動きを見せていたのです。
当時の久光には幕府を武力で倒すなどという了見はさらさらありません。久光の素志は朝廷と幕府の間を周旋し、幕政改革を成し遂げようとする公武融和策にあり、浪人や志士たちが考えるような過激な計画とは正反対のものでした。
このように緊迫する京都、大坂の状況を知った西郷は、久光から下された「下関で行列の到着を待て」との命令を無視し、急遽大坂へと向かいました。大坂に到着した西郷は、騒ぎ立てる浪人や志士たちを鎮静化するべく尽力していたのですが、遅れて下関に到着した久光は、自分の命令を無視し、勝手に行動した西郷に激怒しました。
また、その後、兵庫に到着した久光は、西郷が浪人や志士たちを扇動しているとの報告を受け、ついに西郷の捕縛を命じたのです。
西郷の同志であり、共に働いてきた大久保は、久光が西郷の捕縛命令を下したことを知り、急遽西郷を兵庫の浜辺に呼び出しました。大久保は西郷に向かって、「事ここに到っては死ぬより他に無い」と、お互いに刺し違えて自決しようと言いました。
しかし、西郷は首を縦に振りませんでした。
勝田孫彌『西郷隆盛伝』には、
「君にして死せば誰か能く後事に任じ勤王の大志を貫徹する者あらんや余将に君命を奉じて罪に服すべし君宜しく任じて後事を為せよ」(君が死んだら、誰に後事を託せば良いのか。勤王の大志を貫けるのは君以外居ないではないか。私は君命に随い罪に服す。君は私の志を継いで後事をなしてくれ)
と、大久保を諌めたとあります。
その西郷の言葉に大久保はようやく翻意し、西郷を自らの宿舎に連れて行った後、久光に対して西郷が謹慎していることを伝えました。こうして西郷は捕縛されることになったのです。
この兵庫の浜辺での西郷と大久保のやり取りを見ても分かるように、西郷はどんな苦難にあおうとも、決して自ら命を絶つような選択をすることはありませんでした。それは若き日、月照と共に投身自殺をはかった経験からくるものです。西郷は月照との自殺未遂の末、天から与えられた使命が終われば、天は自らの命を自然と奪い去るであろうと考えるようになり、その後決して自ら命を絶つようなことはしなかったのです。これが西郷の「敬天愛人」の思想です。(付記:西郷の死生観については、本サイト内の「敬天愛人について」を併せてお読み下さい)
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