(西郷隆盛の生涯)寺田屋騒動から八月十八日の政変まで


寺田屋(写真)
寺田屋(京都市伏見区)


【寺田屋騒動】
 西郷が捕縛され、久光の命令で薩摩に送還されると、久光の行列はいよいよ威風堂々と京都に入りました。
 一方、西郷という統制者を失った京都、大坂に集まった浪人や志士たち、薩摩藩士・有馬新七を中心とした薩摩藩の急進派藩士たちは、久光の入京を機に、倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画し、京都伏見の船宿「寺田屋」に集結を始めました。
 久光は自分の意思に反する行動をとる過激な藩士がいることを不快に感じていました。また、朝廷自体もこのような過激な浪人・志士たちの集団が不穏な動きを見せていたことを憂慮していたため、朝廷は久光に対し、過激浪士の鎮撫を命じました。
 文久二(一八六二)年四月二十三日、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、薩摩藩の急進派藩士たちが集結する寺田屋に、大山格之助(後の綱良)や奈良原喜八郎(後の繁)といった、いずれも武術に長けた薩摩藩士八名を派遣しました。
 久光はその手練れの鎮撫士たちに対し、

「寺田屋に居る連中が、もし自分の命令に従わない時は、臨機の処置を取れ」

 と厳命しました。
 臨機の処置とは、上意討ちにしても構わないことを含んでいました。
 当時、寺田屋に集まっていたのは、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助といった薩摩藩士が中心でしたが、久光の派遣した鎮撫士たちとは、西郷と同じ誠忠組の同志でもありました。
 寺田屋に着いた鎮撫士八名は、有馬らに対し、軽挙な行動は慎み、藩邸に戻るようにとの久光の命令を告げました。
 しかし、有馬たちはその命令に承服せず、再三押し問答が繰り返された結果、鎮撫士の一人であった道島五郎兵衛が、突如「君命ごわす!」と叫び、有馬らに斬りかかりました。
 ここに薩摩藩士同士が相討つ寺田屋の惨劇が起こったのです。
 大山ら鎮撫士たちはいずれも剣術に長けた藩士ばかりでしたので、寺田屋にいた人々は次々と斬り倒され、まるで生き地獄さながらの光景が繰り広げられました。
 特に、首領格であった有馬新七の最後は壮絶を極めました。
 有馬は道島五郎兵衛と斬り合いに及んだ末、道島を室内の壁に押し付け、その上に自分が覆いかぶさると、同志の橋口吉之丞に対し、

「おいごと突けー! おいごと刺せー!」

 と、絶叫しました。
 有馬の絶叫を聞いた橋口は、有馬と道島を持っていた刀で突き刺したのです。
 このように壮絶極まりない寺田屋事件は、寺田屋に居た有馬以下六名が死亡、二名が重傷を負い、鎮撫士側は、有馬と共に橋口に突き刺された道島のみが死亡しました。
 また、寺田屋に集結していたその他二十数名の薩摩藩士たちは、大山らの熱心な説得により、行動を起こすことを断念し、薩摩藩邸に出頭することになりました。
 久光が取ったこの迅速な鎮圧行動に対し、朝廷は久光に対して絶大なる信頼感を持つことになります。
 このように同じ薩摩藩内の若者たちが斬り合った寺田屋事件があったからこそ、久光は朝廷の大きな信頼を得ることになったのですから、余りにも悲惨かつ皮肉な出来事であったと言えましょう。


【沖永良部島への遠島、生麦事件と天誅の嵐】
 久光の逆鱗に触れ、薩摩へと送還された西郷は、その後、藩から徳之島への遠島を言い渡されました。これが西郷にとって初めての罪としての流刑です。
 遠島という重い処分を被った西郷は、この時本気で隠居(引退)することを覚悟したようです。そして、西郷は奄美大島から妻子を徳之島に呼び、穏やかな暮らしをすることを考えていましたが、そのような安寧の日々が訪れることはありませんでした。
 久光は西郷に対して、沖永良部島への遠島替えを命じたのです。沖永良部島への遠島は、死罪に次ぐ最も重い処分であったと言われています。
 西郷に与えられた命令書の中には、「(沖永良部島に)船が着いたら、囲いのある牢に入れ、昼夜開けることのないよう、番人を二人付けて取り締まること」とあり、いかに西郷の処分が厳しいものであったのかがよく分かります。
 また、沖永良部島での遠島生活は峻烈を極めました。雨風吹きさらしに近い獄舎での生活の中、西郷は獄舎の中で三度の食事以外は水もろくに口にせず、常に端坐し続け、読書や瞑想をしていたと伝えられています。このような過酷極まりない生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、次第に体力も限界へと近づいていきました。
 そんな西郷の状況を憂いたのが、沖永良部島で間切横目(監察、警察の役職)を務めていた土持政照という人物です。土持は西郷の悲惨な状況を見かねて、私財を投じて西郷の獄舎を改築しようとし、生活環境の改善を試みました。
また、土持は獄舎の改築工事をわざと長引かせることにより、その間、西郷を静養させたのです。そんな土持の厚意により、西郷は次第に体力を回復し、窮地を救われることになりました。
 沖永良部島で西郷が過酷な生活を強いられる中、久光は朝廷から念願の幕政改革の勅許を得ることに成功し、勅使の大原重徳を護衛する形で、文久二(一八六二)年六月七日、威風堂々と幕府の本拠地である江戸に入りました。
 勅使の大原は、時の第十四代将軍・徳川家茂に対して幕政改革の勅命を伝えました。幕府はその要求をのみ、一橋慶喜を将軍後見職に、前越前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することを決定し、久光の素志はこうして叶えられることとなったのです。
 そして、同年八月二十一日、目的を果たした久光が江戸から京都に向けて引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において、日本を揺るがす大きな事件が起こりました。久光の行列に四人のイギリス人が馬で乗り入れたことから、随行の薩摩藩士が彼らに刀で斬りかかり、当時観光で日本を訪れていたリチャードソンが死亡したのです。
 これが世に言う「生麦事件」です。
 この生麦事件がきっかけとなり、その翌年には薩摩藩とイギリスが砲火を交える「薩英戦争」が生じることになります。
その後、京都に戻った久光は、幕政改革の要求に成功したことから朝廷の覚えも目出度く、その首尾は上々であったと言えますが、当時の京都は久光の意とは反する過激な尊王攘夷論一色に染まっていました。
 久光が兵を率いて入京する以前、長州藩は長井雅楽の航海遠略策をもって、朝廷と幕府の仲介役を果たそうとしていましたが、その周旋活動は長井を支持していた幕府老中の安藤信正が江戸城の坂下門外で襲撃され(坂下門外の変)、失脚したことより頓挫することになりました。また、長州藩内では、安政の大獄で刑死した吉田松陰の教えを受けた松下村塾出身の藩士たちが中心となり、長井の排斥運動を起こしたことから、長井は失脚せざるを得なくなったのです。
 このように航海遠略策という公武合体政策を引っ込めた長州藩は、その後、藩論を百八十度転回し、最も過激な「尊王攘夷論」を朝廷の若手公卿たちに対して熱心に入説しました。尊皇攘夷とは、読んで字の如く「王を尊び、夷狄を攘う(天皇を尊び、外国を打ち払う)」という考え方です。長州藩の急進派藩士たちは、武力をもって外国を撃退するという過激な攘夷論を公卿たちに吹聴し、その勢いは急激に大きなものとなり始めていたのです。
 このように久光が江戸に下向して不在の間、京都の政情は大きく様変わりしていました。久光の素志は朝廷を中心とした政治体制の復活であり、朝廷と幕府の融和策、つまり公武融和にありましたが、自分が京都を留守にしている間に、朝廷が現実的に実行し難い攘夷論一色に染まったことを知り、久光は憤懣やるせない感情を持つにいたりました。
 しかしながら、久光はこのまま京都に留まり、この攘夷論一色の形勢をひっくり返すような時間的余裕はありませんでした。当時、生麦事件の報復と称し、イギリス艦隊が薩摩に襲来するという噂が流れていたためです。イギリスの報復行動に対する準備をいち早く整えるためにも、久光はいち早く国元の薩摩に帰国せざるを得ない状況にあったのです。
 こうして久光が薩摩に帰国した後の京都の町は、いわゆる「天誅」と呼ばれるテロリズムの嵐が吹き荒れました。安政の大獄において幕府の手先として働いた者や尊王攘夷論に反対して開国論を唱える者、はたまた攘夷の実行に邪魔になると見られた者たちが、次々と暗殺という手段により殺されていったのです。
 まさにこの時期は、幕末という時代の中でも最も凄惨で、かつ暗黒の時期であったと言えましょう。


薩英戦争本陣跡(写真)
薩英戦争本陣・千眼寺跡(鹿児島市)
【薩英戦争と八月十八日の政変】
 文久三(一八六三)年七月二日、七隻の軍艦を擁したイギリス艦隊は、横浜から海路鹿児島の錦江湾に集結し、薩摩藩との間で激しい砲撃戦を繰り広げました。
 
世に言う「薩英戦争」です。
 イギリスはその前年に生じた生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の請求を薩摩藩に対して要求しましたが、薩摩藩側がこれを拒否したため、ついに戦端が開かれました。
 イギリス艦隊は鹿児島城下に向かって激しい艦砲射撃を加え、薩摩藩側は海岸沿いに築いた砲台から応戦しました。アームストロング砲を備えたイギリスの最新鋭軍艦に対し、薩摩藩側は旧装備でありながらも勇猛果敢に反撃しました。その結果、薩摩藩側の戦死者が五名であったのに対し、イギリス側の戦死者は十三名にものぼり、イギリス艦隊は旗艦ユーリアラス号のジョスリング艦長までも戦死するという損害を受けました。
 しかしながら、圧倒的に火力に勝るイギリス艦隊の砲撃により、薩摩藩側は斉彬が築き上げた工場群や城下町を焼失する大きな被害を受け、イギリス海軍の強大な力を思い知ることになります。
 この薩英戦争がきっかけとなり、薩摩藩は外国と戦うことの無謀さを思い知り、それ以来イギリスと友好的な関係を築くようになり、軍艦や武器の購入、紡績機械などの機器類の輸入、また留学生の派遣など、両者の間柄は急速に親しいものとなっていくのです。
 一方、薩摩藩がイギリスと激しく砲火を交えていた時期、鹿児島から遠く離れた京都では、長州藩の尊王攘夷論の勢いは益々盛んとなっていました。
 長州藩の尊攘派藩士たちは、朝廷の若手公卿を尻押しすることで、自らの意のままに朝廷を操ることに成功し、文久三(一八六三)年三月に加茂神社、同年四月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、まさに天下を手にしたような状況が続いていました。
 このような長州藩の一種暴走とも呼べるような動きを苦々しく見つめていた二つの藩がありました。
 一つは、当時京都守護職の要職にあった松平容保(まつだいらかたもり)を藩主とする会津藩です。
 前年の文久二(一八六二)年閏八月、容保は幕府から京都守護職を拝命し、十二月に藩兵約千人を引き連れて京都に入りました。当時の京都は天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れており、容保はその対策を打たなければならないところでしたが、テロを続ける長州藩や土佐藩を中心とした尊攘派藩士たちの背後には、過激な攘夷論に染まった公卿たちが存在しており、しかも彼らが朝廷を牛耳っているような状態であったため、容保としては、容易に手が付けられない状況にありました。容保は京都守護職として赴任していながらも、尊攘派の横暴を食い止めることが出来ずにいたのです。
 そして、もう一つの藩とは薩摩藩です。
 久光は薩摩から兵を率いて京都に入り、幕政改革の勅許を得て、江戸に下向し幕府に対してその要求を承諾させることに成功しましたが、その久光の苦労は尊攘派の過激な攘夷論で全て吹き飛んでしまっていました。当時尊攘派に操られていた朝廷は、幕府と協力して政治を行うどころか、幕府に対して非現実的な破約攘夷(外国と結んだ条約を破棄し、外国を武力で打ち払うこと)を迫ったため、久光の公武融和論は水泡に帰していたのです。
 こうした事情があったことから、薩摩藩と会津藩は互いの利害関係が一致し、手を握るという前代未聞の出来事が起こりました。
 文久三(一八六三)年八月十八日未明、薩摩藩と会津藩の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固めました。両藩の意を受けた公武合体派公卿の中川宮朝彦親王は、急遽御所に参内して天皇に奏上し、長州藩や土佐藩の尊攘派が担いでいた三条実美ら七名の公卿の参内を禁ずる勅許を得ました。
また、それと同時に長州藩は、受け持っていた堺町御門の守衛を免じられ、三条実美ら七名の公卿と共に、都落ちせざるを得なくなったのです。
 この薩摩藩と会津藩が長州藩を京都から追放した政変のことを「八月十八日の政変」と言い、三条実美ら七名の公卿の都落ちを「七卿落ち」と言います。




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