(西郷隆盛の生涯)西郷赦免から第一次長州征伐まで


西郷屋敷跡(写真)
西郷隆盛上之園屋敷跡(鹿児島市)


【西郷赦免】
 薩摩藩は会津藩と提携し、京都における勢力回復を目論み、八月十八日の政変というクーデターを敢行し、成功させました。
 京都から長州藩を中心とした尊王攘夷派の勢力を一掃した薩摩藩は、再び久光が上京し、将軍・徳川家茂以下、幕閣の有力者や有力諸大名を京都に参集させることに尽力しました。久光は再び朝廷と幕府の間を周旋しようと試みたのです。
 また、久光は、朝廷、幕府、そして諸大名、この三つの勢力間の意志の疎通をはかる方策として、「参預制度」という、有力諸藩が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度を朝廷に対して提唱しました。有力諸藩の大名もしくはそれに準じる人々の中から参預と呼ばれる評議員を選出し、その参預で構成される参預会議を運営することによって、朝廷と幕府の融和と諸大名の政治参画を成し遂げようとしたのです。
 しかしながら、この久光の提唱した参預会議は、将軍後見職・一橋慶喜の策謀により、横浜鎖港問題(注)で意見が対立し、結局瓦解することになります。(注:開国論者であったはずの一橋慶喜が、その持論を引っ込めて、横浜港の鎖港を主張し、開国を主張する久光らと意見が対立した)
 このように久光が推進した公武融和策は行き詰まりを見せ、薩摩藩首脳部はそれに代わる打開策を模索せざるを得ない状況となったことから、藩内から西郷を沖永良部島から召還しようとする運動が起こり始めました。
 西郷の赦免運動を起こしたのは、寺田屋事件の生き残りである柴山竜五郎、三島源兵衛(後の通庸)、福山清蔵といった西郷と縁の深い人たちでした。柴山たちは相談した結果、大久保や家老の小松帯刀といった久光の重臣たちに、西郷の赦免を久光に願い出てもらうよう頼むことにしましたが、彼ら重臣の誰もが、久光の根深い西郷に対する憎悪を知っていたため、なかなか首を縦に振りませんでした。
 そこで柴山たちは、久光のお気に入りの家臣である高崎左太郎(後の正風)と高崎五六の二人に対し、久光に対して西郷赦免を願い出るよう頼みました。
 柴山たちの依頼を受けた両高崎は、久光の面前において、

「もし、西郷赦免の願いをお聞き入れなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」

 と願い出ました。
 それを聞いた久光は、

「左右みな西郷のことを賢者だと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主忠義)に伺いを立て、裁決を請うが良い」

 と言いました。
 久光は西郷を呼び戻そうとする意見具申を苦々しく聞いていたに違いありません。『大西郷全集』所収の「西郷隆盛伝」には、「久光はくやしげに銀の煙管(きせる)を噛みしめたが、歯痕がついて煙管が瑕(きず)になったと傳へられる」とあり、久光にとって、西郷の召還は苦渋の決断だったのです。
ただ、久光としても、薩摩藩の今後の展開を考えると、西郷のように人望や手腕のある人物をこのまま南島に朽ち果てさせて置くようなことも現実問題として出来なかったのでしょう。
 こうして沖永良部島にいた西郷の元に赦免の使者が到着しました。元冶元(一八六四)年二月二十一日、西郷が三十六歳の時のことです。


【西郷の着京と蛤御門の変】
 元冶元(一八六四)年二月二十八日、西郷は約一年八ヶ月ぶりに鹿児島の地に戻りました。
 西郷がその翌年に沖永良部島の土持政照に送った手紙によると、鹿児島に着いた時の西郷は長期に渡る遠島生活で歩くこともままならず、駕籠を使って自宅まで帰り、その翌日斉彬の墓に参詣した際も、まさに這うようにして行ったようです。西郷はそんな自分の姿を「哀なる為体(ていたらく)」と自称しています。沖永良部島での遠島生活は、西郷の足腰を弱くし、さらに後に肥満や体調不良の原因ともなった風土病に罹患するなど、西郷の体を大きく蝕んだとも言えます。
 そんな西郷でしたが、席の暖まる暇もなく久光から京都へ呼び出され、軍賦役(ぐんぶやく)兼諸藩応接係の重職に任命されました。軍賦役とは軍事司令官、諸藩応接係とは外交官のような役職です。そして、この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まるのです。
 復帰した西郷がまず手掛けたことは、前年の八月十八日の政変で提携した会津藩から距離を置くことでした。
 当時の薩摩藩は、参預会議が瓦解したことで久光の主唱する公武融和策は頓挫し、幕府との関係も良好でないばかりか、前年の八月十八日の政変の影響で、尊王攘夷派からは会津藩と共に悪評を被り、一種怨嗟の的ともなっていました。西郷はそのような現状を踏まえ、会津藩と一定の距離を保ち、まずは朝廷守護を専一に努めることで、京都での薩摩藩の信頼回復に尽力しました。
 その一方、八月十八日の政変で京都から追放された長州藩ですが、元冶元(一八六四)年六月五日に起こった「池田屋事件」(注)を機に、それに激昂した長州藩内の急進派が京都での勢力回復を謀り、福原越後以下三人の家老を将として、京都に向けて大軍を進発してきたのです。(注:長州藩士を中心にした尊攘派の志士約三十名が、会津藩預かりの新選組の襲撃を受けた事件)
 この事態を憂慮した京都所司代の桑名藩主松平定敬(まつだいらさだあき)は、薩摩藩にも出兵を要求しましたが、西郷は「この度の戦いは、長州と会津との私闘である」と出兵を拒否し、薩摩藩は禁裏守護に徹底するとの方針を立てました。
 元冶元(一八六四)年七月十八日、京都周辺を囲むように布陣していた長州藩兵が動き出し、御所に向かって進撃を開始しました。
 長州藩兵は積りに積もった恨みを晴らすかの如く、その勢いは凄まじく、会津藩兵を蹴散らし、長州勢は御所内に迫る勢いを見せ、蛤御門を中心に攻めかかりました。
 この状況を知った西郷は、自ら薩摩藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げました。この戦で西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、蛤御門周辺の戦いは大変な激戦となりましたが、西郷は藩兵を上手く使いこなし、見事に長州勢を退けたのです。
 
これが世に言う「禁門の変(蛤御門の変)」です

【勝海舟との出会い】
 元冶元(一八六四)年九月十一日、越前福井藩士の堤正誼と青山貞の二人が、突然西郷の元を訪ねてきました。
 二人は西郷に対して、「今、大坂に幕臣の勝海舟という人物が滞在しているが、勝は幕臣中一廉の人物であるので是非面会なさった方がよい」と進言しました。
 西郷はその話を聞き、早速勝に面会を申し込みました。勝は西郷からの申し出を快く受け入れ、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せたのです。
 勝はその席上、ざっくばらんに幕府の内情や現在の国内情勢と諸問題について、西郷と語りあいました。
 西郷はその時の勝との初対面を、元治元(一八六四)年九月十六日付けの大久保に宛てた手紙の中に次のように書いています。

「勝氏へ初めて面会仕り候処、実に驚き入り候人物にて最初は打叩く賦(つもり)にて差し越し候処、頓と頭を下げ申し候。どれ丈ケ(だけ)か智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候。先ず英雄肌合の人にて、佐久間より事の出来候儀は一層も越え候わん。学問と見識においては佐久間抜群の事に御座候得共、現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し候」(勝氏へ初めて面会しましたが、実に驚き入る人物でした。最初はやっつけるつもりで行きましたが、実際会ってみると、ほんと頭が下がりました。勝氏にどれだけの知略があるのか、私にはまったく分からないほどです。また、英雄のような人物で、佐久間象山よりも一層大きな人物のような気がします。学問と見識においては、佐久間の右に出る者はおりませんが、実務能力に関して言えば勝先生の方が上だと、私もひどく惚れ申しました)

 西郷がいかに勝の人物を認めたのかが、この手紙の記述からよく分かります。
 この二人の出会いが、後年の「江戸無血開城」へと繋がっていくことになるのです。


五卿潜居の間(写真)
功山寺・五卿潜居の間(山口県長府)
【第一次長州征伐】
 蛤御門の変で長州藩を撃退し自信を深めた幕府は、その勢いに乗じて、これを機に長州藩を討伐しようと考えました。
 元冶元(一八六四)年七月二十三日、幕府は長州藩追討の勅命を朝廷から得ることに成功し、その翌日薩摩藩を含んだ西国の二十一藩に対し、長州への出兵命令を下しました。
 征長軍の総督には尾張藩主の徳川慶勝が任命され、西郷は征長軍の参謀として、長州に向かうことになりました。
 慶勝は西郷に対して、長州征伐についての見込みや意見を求めました。西郷はこの内戦が無意味であることを述べ、武力を使わずに長州藩を恭順させることが良策であると進言しました。
 当初、西郷は御所に向かって発砲した長州藩には厳しい処分が必要であるとの認識を持っていましたが、大坂で勝海舟と語り合い、薩摩と長州の二大雄藩が相争うことは日本全体のためにならず、引いては幕府の利益になることを悟り、いち早く長州征伐を終わらせることが必要と考えるようになっていたのです。慶勝はそんな西郷の意見を聞き入れ、西郷に長州征伐に関わる一切の工作を委任しました。
 慶勝の委任を受けた西郷は、急遽長州藩の支藩である岩国へと向かい、岩国藩主の吉川経幹(きつかわつねまさ。監物)と会談し、幕府の武力討伐の期日が迫った今、無意味な抵抗は愚策であると論じ、早急に恭順の意を示すため、禁門の変の首謀者である三人の家老の処罰を行うよう助言しました。
 また、西郷は長州藩が速やかに恭順するならば、征長軍を解兵させるよう尽力するとも約束し、長州征伐に対して強行論を唱えている長州藩内の奇兵隊(長州藩士・高杉晋作が組織した民兵組織)などの諸隊の取り扱いについても、みだりに厳しい処分をしないで欲しいと述べるなど、吉川は西郷の厚い配慮に感謝したのです。
 西郷の進言を受け入れた吉川は長州藩に働きかけ、禁門の変の首謀者として福原越後以下三人の家老を切腹させた他、四人の参謀の斬罪を行い、恭順の態度を示すように取り計らいました。
 しかし、八月十八日の政変により、都を追われ長州に落ち延びていた五人の公卿(注)の取り扱いについて、事態は紛糾しました。(注:七卿落ちで都を追われた七人の内、錦小路頼徳は既に死亡し、澤宣嘉は生野の変を起こした後、逃亡していた)
 五卿の引き渡しは、征長軍の解兵の一条件となっていましたが、長州藩の奇兵隊を中心とした諸隊が強硬に反対しました。長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州藩が朝廷の意を受けて、勤王藩として働いてきた証拠であり、その象徴でもあったからです。
 武力を用いることなく、早急に長州処分を行うことが必要と考えていた西郷にとって、この諸隊の反乱とも言える行動は、長州征伐の平和的解決をふいにしかねない、危険をはらんでいると判断しました。長州藩が五卿の動座を拒否することは、すなわち武力での長州討伐を主張する幕府内の主戦派に対し、出兵の名目を与えかねないとも考えられたからです。
 そこで西郷は思い切った行動に出ました。西郷自らが長州藩領に入り、諸隊の拠点があった下関へ乗り込み、五卿の動座に関して、諸隊の幹部たちと直談判しようと考えたのです。
 当時の長州藩士は、八月十八日の政変や禁門の変が原因で、薩摩藩や会津藩を憎む者が多く、「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」という言葉が長州藩士の間で声高に叫ばれた時期でした。現に文久三(一八六三)年十二月には、下関海峡を通航していた薩摩藩の商船「長崎丸」が長州藩から砲撃を加えられ、焼失する事件が生じるなど、当時の薩長両藩の確執は非常に根深いものがあったのです。
 このようなことから、薩摩藩士にとって長州という場所は、まさに死地に等しい場所だったと言えます。特に長州藩の諸隊の幹部連中には、「薩摩藩士が来たら斬り捨てる」など、過激な言動を取る者も居たため、薩摩藩士が諸隊の本拠地である下関に入るということは、まさに死にに行くようなものであったとも言えます。そのため、西郷の同志たちは、西郷が下関に行くことに反対しました。
 しかしながら、西郷は自らが死地に入ることにより、事態を大きく改善しようと考えました。この西郷の行動は、まさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」という故事を実践しようとするものだったと言えます。
 こうして元冶元(一八六四)年十二月十一日、西郷は薩摩藩士・吉井幸輔と税所喜三左衛門を伴い、危険を冒して長州の下関に入りました。長州藩の諸隊の幹部連中は、征長軍参謀であった西郷の突然の来訪にさぞかし驚いたことでしょう。
 西郷は五卿の従士と諸隊の幹部連中と会談し、現在日本が置かれた状況を考えれば、内戦を起こしているような場合ではないことを丁寧に説き、また五卿の身の安全を保障し、五卿動座による早急な征長軍の解兵こそが、薩長双方そして日本にとっても有意義であることを述べました。
 こうした西郷の熱心な説得により、長州藩の諸隊の幹部連中は、五卿を動座させることをようやく承諾したのです。そして、五卿動座が決定されたことにより、慶勝は征討諸軍に解兵を命じました。
 第一次長州征伐が大きな戦争に到らず、平和的な解決により事が済んだのは、西郷の死を賭した働きによるものだったと言えます。






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