(西郷隆盛の生涯)薩長同盟から大政奉還まで
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坂本龍馬銅像(高知県高知市・桂浜) |
【薩長同盟】
長州藩が禁門の変の首謀者を処罰し、さらに五卿を筑前(現在の福岡県)の大宰府に移転させるなど、恭順の意を示したことで、征長軍総督の徳川慶勝は解兵を決定し、京都に引き上げることになりましたが、幕府首脳部にとって、慶勝が下した処分は納得できるものではありませんでした。
幕府は慶勝に対して、長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)、定広父子と五卿を江戸に護送するよう、厳しい処分を求めましたが、慶勝はそれを事実上無視したため、幕府は再び長州を討伐する準備に入ったのです。
長州処分の立役者であったとも言える西郷は、長州藩が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行おうとする幕府の方針に対し、大きな憤りを感じていました。西郷は薩摩藩首脳部と相談のうえ、長州再征は幕府と長州藩の私戦であると位置付け、幕府からの出兵命令を拒否するという方針をまとめました。
このような幕府の対応に不満を抱いたのは、西郷ら薩摩藩士だけではありません。土佐藩士の土方楠左衛門(後の久元)と中岡慎太郎の二人は、これを機に現在仲違いしている薩摩藩と長州藩の手を握らせようと考えました。二人は同じ土佐藩士の坂本龍馬にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出したのです。
中岡は長州藩の指導者的立場にいた木戸孝允に対し、薩長融和に向けて説得を開始しました。また、土方は薩摩憎しで凝り固まっていた長州藩諸隊の幹部連中の説得に努め、龍馬は西郷を始めとする薩摩藩の重臣たちに対し、薩長同盟の必要性を説いたのです。
慶応元(一八六五)年九月二十一日、長州再征の勅許が朝廷から幕府に下され、第二次長州征伐は現実味を帯びてきました。
長州藩にとって、幕府の武力による再征が目前に迫る状況を考えると、薩摩藩との同盟は渡りに船でしたが、これまでの経緯から考えると、どうしても薩摩藩に対するわだかまりが拭えません。八月十八日の政変や禁門の変の影響が、長州藩をして薩摩藩との同盟に二の足を踏ませていたのです。
また、西郷自身も長州藩が征伐されれば、次は薩摩藩の番であるという危機意識を持っていたことから、薩長同盟の必要性は感じていながらも、国許薩摩に居る久光の意向無しに独断で事を進めることは難しい状態にありました。
このように、薩長同盟への道は当初から困難を極めましたが、ここで龍馬は一計を講じました。当時の長州藩は、幕府の指示で外国の貿易商から武器を購入することが出来なかったため、龍馬は薩摩藩と長州藩の間に入り、薩摩藩名義で外国から買った武器や弾薬を長州藩に横流しして売ることを考えました。また、龍馬は兵糧米を欲していた薩摩藩が長州で米を購入できるように取り計らい、まずは両藩を経済面から提携させようとしたのです。
このように中岡、土方、龍馬の不断の努力が実を結び、長州藩の代表として木戸孝允が京都に入り、小松、西郷、大久保を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催されることになりました。
しかし、長年に渡る両藩の確執は簡単には払拭できず、双方とも自重し、また、長州再征に対する見解の相違などもあり、同盟締結の話はなかなか前に進みませんでした。
このように同盟締結は寸前のところで幻に終わるかと思われましたが、同盟を見届けるために京都に入った龍馬が西郷を説得したことにより、西郷は心を動かされ、家老の小松と相談し、許可を得た上で、ついに慶応二(一八六六)年一月二十一日、坂本龍馬立会いのもと「薩長同盟」が締結されました。
【長州再征と大政奉還】
慶応二(一八六六)年七月、西郷は自ら筆を取り、長州再征の出兵を拒絶する建白書を書き、藩主父子の名で朝廷に対して提出しました。その建白書の中で西郷は、「条理不相叶訳故、恐なからも其筋ニ承服仕間敷(条理相叶わざる訳故、恐れながらも其筋に承服仕る間敷)」と、条理に合わない出兵には承服できないと書いています。西郷にとっての長州再征とは、大義名分を伴わない、無用の長物であったのです。
このように始まった第二次長州征伐は、征長軍の士気が一向に上がらないまま実行に移され、征長軍は長州軍に対して、各地で敗戦を喫しました。
征長軍の敗因は、長州藩が龍馬の斡旋で手に入れた外国からの新式兵器を効果的に使い、戦術的にも勝っていたこともさることながら、一番の大きな原因は薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参加していなかったからにあります。
このように征長軍が各地で連敗する中、江戸から大坂城に入り、その戦況を見守っていた第十四代将軍・徳川家茂が、慶応二(一八六六)年七月二十日、突然死去しました。
幕府は将軍の死により、ようやく長州再征の休戦命令を出すにいたり、また、家茂亡き後、将軍職を継いだのは、一橋慶喜でした。
若き日の西郷は、藩主・斉彬の指示により、慶喜を将軍継嗣にするよう働いた経緯がありましたが、今度はその慶喜が西郷の前に立ちはだかることになるのです。
慶応三(一八六七)年五月、西郷は久光を筆頭に、越前福井藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城の四人を京都に招集することに尽力し、「雄藩連合会議(四侯会議)」を開くことに成功しました。西郷は将軍慶喜に対抗するべく、有力四藩の結束を固め、政治的主導権を握ろうと考えたのです。
しかしながら、四侯会議は四藩それぞれの思惑や利害関係の不一致、慶喜の巧みな政略などにより、結局不成功に終わりました。この四侯会議の失敗により、西郷は日本の政治改革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかない、という考えに達します。
四侯会議の失敗後、西郷や大久保は武力倒幕への準備を着々と進めていくことになるのですが、その動きに対して土佐藩は、政権を幕府から朝廷に返還させようとする「大政奉還」を推進しました。その運動の中心人物は、土佐藩の重臣・後藤象二郎と坂本龍馬の二人でした。
西郷はその土佐藩の方針を容認する立場をとりました。慶喜が政権を返上することは、薩摩藩としても、ひいては日本全体としても、大きな利益を生じることだと考えたからです。
西郷は土佐藩の大政奉還運動と同時並行で、長州藩と共に武力倒幕に向けて準備を進めました。慶応三(一八六七)年九月十八日には、大久保が長州に出向き、長州藩主毛利敬親に拝謁し、薩長は互いに倒幕のための出兵盟約を締結しました。
また、さらに大久保は、朝廷より「討幕の密勅」の降下を願うべく、公卿の岩倉具視と共に朝廷工作を進めました。その結果、同年十月十四日、薩摩藩と長州藩に対して、朝廷から討幕の密勅が下されたのです。
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