(西郷隆盛の生涯)王政復古から江戸無血開城まで


大阪城
徳川慶喜が兵を集結させた大阪城(大阪市)


【王政復古と小御所会議】
 薩摩藩と長州藩に対して、朝廷から討幕の密勅が下された同日、将軍・徳川慶喜は、土佐藩の大政奉還の建白を受け入れ、朝廷に対して政権を返上することを奏上しました。一説によると、慶喜は薩長の武力倒幕の大義名分を失わせるために、大政奉還に踏み切ったとも伝えられています。
 また、将軍慶喜の大政奉還により、日本の政権は幕府から朝廷へと返還されることになりましたが、幕府が開かれて以来、政治上の運営を全て幕府に委任してきた朝廷に実際の政治担当能力はありませんでした。慶喜はそれを見越したうえで、大政奉還に踏み切ったとも言われています。
 一方、西郷は朝廷から討幕の密勅が下された三日後の慶応三(一八六七)年十月十七日、小松、大久保、そして在京中の長州藩士・廣澤真臣、品川弥二郎らと共に京都を出発し、一路長州へと向かいました。西郷は長州藩主・毛利敬親に拝謁し、倒幕のための挙兵の打ち合わせをした後、その足で鹿児島へと帰国しました。小松、西郷、大久保といった当時の薩摩藩首脳の三人が同時に鹿児島に帰国したのは、藩論統一のためです。
 当時の薩摩藩内には、いわゆる保守派と呼ばれる大きな勢力を依然として存在しており、西郷や大久保の倒幕派と意見を異にしていました。小松、西郷、大久保の三人は、討幕の密勅を元に、倒幕に藩論統一を図ろうとしたのです。
 小松や桂久武といった門閥家老の協力により、藩論を倒幕に統一することに成功した西郷は、同年十一月、藩主・島津忠義と共に三千の藩兵を引き連れて再度京都に向かいました。西郷はこの兵力を背景に、新政府の樹立を目指したのです。
 慶応三(一八六七)年十二月九日、西郷が上京させた薩摩藩兵を指揮し、御所の宮門を警護する中、「王政復古の大号令」が煥発されました。その内容は、幕府を廃止すると共に、摂政、関白などの官職も同時に廃止され、総裁、議定、参与の三職を新たに設置し、朝廷において国政を運営するというものでした。
 ここに幕府に変わる新しい政府が発足したのです。
 王政復古の大号令が出た日の夜、御所内の小御所に、当時まだ十五歳であった明治天皇が親臨のもと、諸藩の藩主や公卿たちが集まり、御前会議が開かれることになりました。
 
世に言う「小御所会議(こごしょかいぎ)」です。
 幕府制度が廃止されたとは言え、依然として幕府は強大な軍事力と領土を保有している状態にあったことから、この小御所会議において、薩長両藩と共同歩調を取ってきた公家の岩倉具視は、慶喜に対して「辞官・納地(官職を辞職し、領地を返納する)」を求めることを決議しようとしました。
しかし、前土佐藩主の山内容堂がそれに反対し、前越前福井藩主の松平春嶽もまた、その容堂の主張に賛成しました。容堂と春嶽の慶喜擁護の主張に対し、岩倉具視がさらに反論するなど、小御所での会議は紛糾しました。
 小御所会議が開かれる中、西郷は会議には出席せず、薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛にあたっていました。
 小御所会議での議論がもつれ、いったん休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣岩下佐次右衛門(後の方平(みちひら))は西郷を呼び出し、会議が紛糾していることを告げ、助言を求めました。岩倉もまたその席に来て、西郷に意見を求めると、西郷は「そいは短刀一本で用は足りもす」と言ったと伝えられています。「相手を刺すくらいの覚悟と気迫で臨めば、事は自然と開ける」という意味を込めて、西郷は会議に臨む心構えを岩倉に説いたのです。
 そんな西郷の言葉に勇気付けられた岩倉は、例え山内容堂と刺し違っても「慶喜の辞官・納地を成し遂げる」と周囲の者に打ち明け、その岩倉の決心を聞いた土佐藩重臣の後藤象次郎は驚き、主君である山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないことを進言し、これ以上岩倉の主張に反対することは、土佐藩にとっても良策ではないことを説きました。
 山内容堂は歯噛みする思いながらも後藤の進言に翻意し、その後再開された会議において沈黙を守ったのです。
 これにより、慶喜に辞官・納地を求めることが決定されました。


【鳥羽・伏見の戦い】
 小御所会議が開催される中、慶喜は旧幕府の軍勢を従えて、御所近くの二条城に滞在していました。
 慶喜は松平春嶽から小御所会議で辞官・納地が決定されたことを聞かされると、このまま軍勢を京都に留めておくことは危険であると考え、一旦大坂城に退くことを決定しました。慶喜は薩長との無用な武力衝突を避けようとしたのです。
 ただ、このような慶喜の冷静な判断とは裏腹に、幕府の本拠地である江戸においては、庄内藩を中心とした幕府兵が江戸薩摩藩邸を焼き討ちするという事件が起こっていました。慶喜自身が薩長との武力衝突を避けるために苦慮していたにもかかわらず、遠く離れた江戸では、その意を汲み取れない連中が勝手な行動を起こしていたのです。
 江戸で薩摩藩邸の焼き討ちが行なわれたことを知った大坂城内の幕府兵は、士気大いに上がり、「薩長討つべし」との強硬派が力を持ち、ついに慶喜はその勢いに押され、出兵を決断しました。軍事力という点においては、薩長軍が四千程度であったのに対し、幕府軍はその三倍以上の一万五千以上の兵力を有していたことから、幕府兵の士気が大いに上がるのを見て、慶喜自身が勝てると思いこんだことも出兵を決断した理由の一つとなっていました。
 明けて慶応四(一八六八)年一月三日、幕府軍は「討薩の表」を掲げ、鳥羽、伏見の二街道を通り、陸路大坂から京都へ向けて進撃を開始しました。
 迎える薩長側は、主に薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は京都の入口にあたる東寺に本営を置き、臨戦態勢を整えました。
 そこへ一発の砲声が鳥羽方面に響き渡りました。
 鳥羽街道において幕府兵と押し問答を続けていた薩摩藩兵が砲撃を開始したのです。
 これをきっかけにして、伏見方面でも戦闘が始まり、「鳥羽・伏見の戦い」の幕が切って落とされました。
 当初、戦いは薩長側有利に進みましたが、兵数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返し、一進一退の攻防が繰り広げられました。
 しかし、翌一月四日、薩長側に高々と「錦の御旗」が翻ると、戦局は一変しました。朝廷公認の軍隊、つまり「官軍」の証である錦の御旗を見た薩長軍の士気は大いに上がりましたが、その一方で幕府軍は戦意を喪失することとなり、総退却を余儀なくされたのです。
 このように劣勢となった幕府軍の諸隊長らは慶喜に対し、直々の出陣を求めました。大坂城内にはまだ無傷の約一万の軍勢がおり、幕府軍将兵たちは、慶喜の出陣のもと、薩長軍に決戦を挑もうと考えたのです。
 しかし、朝敵の汚名を着せられた慶喜には、もはや戦意はありませんでした。
 慶喜は老中の板倉勝静(いたくらかつきよ)、元京都守護職の松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府の所有する軍艦・開陽丸で江戸に向けて逃亡したのです。
 翌朝、主君の居なくなった幕府軍は大混乱に陥りました。慶喜が大坂から逃亡したことにより、幕府軍は統率力を失い、離散せざるを得なくなったのです。
 このように、慶喜の江戸逃亡により、幕府軍は完全に瓦解し、鳥羽・伏見の戦いは薩長中心の新政府軍の完全勝利となりました。


(写真)西郷・勝会見の地
西郷と勝海舟の会見地(東京都)
【江戸無血開城】
 鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)を東征大総督に任命し、東海、東山、北陸の三道に分かれて、江戸を目指し進軍することを決定しました。
 西郷は東征大総督府下参謀に任命され、東海道を下り一路江戸を目指すことになったのです。
 その一方、大坂から江戸に逃れた前将軍・徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に居を移し、蟄居謹慎の生活に入りました。
 東海道を進撃する新政府軍の軍勢が駿府(現在の静岡県)に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(後の鉄舟)が西郷に面会を求めてきました。山岡は勝から手渡された手紙を西郷に渡したうえで、慶喜は恭順の意を示し謹慎していること、勝がその後事を託され幕府兵が暴発しないよう取り鎮めていることなどを述べ、徳川家に対して寛大な処分が下るよう嘆願しました。
 また、勝の手紙には、「新政府の徳川家に対する処分が寛大なる正しいものであれば皇国(日本)の大幸だが、厳しく誤った処分になるならば、乱臣賊子に反逆の名目を与え、皇国は瓦解することになるであろう」とあり、新政府軍に対して一種強圧的な文言も書かれていました。
 勝と西郷は既に面識があり、互いに認め合った仲でした。勝は西郷が参謀であり、西郷が大局を見通し、大事を誤らない人物であると信頼していたからこそ、このような文面の入った手紙を書き送ったものと思われます。
 また、西郷もその勝の考えを汲み取り、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀たちと共に徳川家の降伏条件を相談し、その条件を箇条書きにして山岡に手渡しました。

 
一、慶喜を謹慎恭順のうえ、備前岡山藩に預けること。
 一、江戸城を明け渡すこと。
 一、幕府の軍艦を残らず渡すこと。
 一、兵器一切を渡すこと。
 一、江戸城内に住まう幕臣は、向島に移り、謹慎すること。
 一、慶喜の妄挙を助けた者共を厳重に取り調べのうえ、謝罪の道筋を立てること。
 一、玉石共に砕くつもりはないので、鎮定の道筋を立てること。
   なお、暴挙に出るような者が出て、手に余るようであれば、官軍が取り鎮める。


 山岡は西郷から提示された条件を一つずつ、ゆっくりと目を通すと、西郷に対して一つだけ飲めない条件があると言いました。第一条の慶喜を備前岡山藩に預けるという条件です。
 山岡は西郷に向かって、

「徳川家ゆかりの親藩が多数ある中、主君を外様の備前岡山藩に預けることは家臣として出来ません。西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてみて下さい。島津公が現在の慶喜公の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を甘んじて受け入れられるでしょうか」

と言いました
 山岡という人物は、若い頃から禅や剣術で強靭な精神力を磨き、人物の押しも西郷に負けず劣らず堂々としています。
 西郷はそんな山岡の態度に感心し、

「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」

 と言いました。
 山岡も西郷の言葉に感動し、泣いて西郷に感謝したのです。
 山岡はその足で江戸へと戻り、勝に対して、西郷との会談の内容と降伏の条件等を報告しました。
 そして、一方の新政府軍は、江戸総攻撃を三月十五日と決定し、続々と江戸に向けて進軍を開始していたのです。
 慶応四年(一八六八)年三月十一日、西郷は江戸の池上本門寺に入り、二日後の三月十三日、高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約三年半ぶりの再会を果たしました。
 この日、西郷と勝の間に、江戸城開城に関する重要な交渉事は何もありませんでした。二人は挨拶程度の話をした後、ただ明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのです。
 そして迎えた江戸総攻撃を翌日に控えた三月十四日、勝は西郷が山岡に提示した条件についての嘆願書を携えて、西郷の元を訪れました。
 勝はその十四日の会談を後年次のように述懐しています。

「いよいよ談判になると、西郷は、おれのいふ事を一々信用してくれ、その間一点の疑念も挟まなかった。「いろいろむつかしい議論もありませうが、私一身にかけて御引受けします」西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であつたら、いや貴様のいふ事は、自家撞着だとか、言行不一致だとか、沢山の兇徒があの通り処々に屯集して居るのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろ喧しく責め立てるに違ひない。万一さうなると、談判は忽ち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいはない。その大局を達観して、しかも果断に富んで居たには、おれも関心した。(中略)この時、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判の時にも、終始座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝の威光でもつて敗軍の将を軽蔑するといふような風が見えなかつた事だ」(勝海舟『氷川清話』講談社学術文庫)

 まさに西郷と勝という二人の英雄がいたからこそ、江戸城の無血開城は成し遂げられたと言っても過言ではないでしょう。
 また、この勝の述懐からも、西郷という人がどんな人物に対しても、礼を尽くし、丁寧に接することを心がけた人であったのかがうかがい知れるのではないでしょうか。
 西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話し合った後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八、中村半次郎(後の桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えました。
 両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになったのです。






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