天璋院篤姫は島津斉彬の実子?
-「篤姫斉彬実子説」の検証B-


(-「篤姫斉彬実子説」の検証- 問題提起編)
 ここまで天璋院篤姫の出自と、篤姫が家定の元に輿入れするまでの簡単な経緯を書いてきましたが、これから冒頭にも書いた「篤姫が斉彬の実子だったという説」の検証にいよいよ入っていきたいと思います。
 「篤姫斉彬実子説」を唱えられている西郷研究でも有名な鮫島志芽太氏は、その著書『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−』の中で次のように書いておられます。
 まずは、その全文を抜粋したいと思います。


なお、島津篤子(敬子)は島津一門の今和泉領主・島津安芸忠剛の長女とされているが、次の史料により斉彬の実子であるといえる。斉彬の側役兼側用人としてつねに側近にいた竪山武兵衛・利武の「公用控(三)」の安政元年十一月十六日の記に、こう書かれている。

「篤姫様事、太守様御実子の儀にて、実の処(家中には)相知れず候につき、それにしても宜しからず候間、公儀むきへは申すことにもこれなく候えども、内実のところ、内々何ぞに記し置き候ように(斉彬様から)御沙汰あらせられ候につき、江田五郎左衛門(記録掛)へ達し置き候事」(鹿児島県『斉彬公史料』)

(鮫島志芽太著『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−上巻』より抜粋)



 読みやすいように、段落を分けて抜粋しましたが、鮫島氏が書かれているこの内容を見ると、とても衝撃的なことが書かれていることが分かります。
 つまり、鮫島氏は斉彬の側近であった竪山武兵衛の『公用控』の記述を引用して、

「斉彬は篤姫が自分の実子であることが、このままでは何の記録にも残らないことはよろしくない。なので、内々に側近の堅山武兵衛を通じて、藩の記録所に勤めていた役人の江田五郎左衛門に、その事を書き記して残すように沙汰した」

 ということを書かれているのです。
 また、鮫島氏は次のようにも続けています。


また、松平春嶽は、
「篤姫は斉彬公の青年の時、お国入りされたころの秘密の子であるといい、さらには妹であるという説も聞いた」
と語っている(『昨夢紀事』他)。
島津家からの家定将軍への輿入れは、老中阿部正弘から、広大院様(島津重豪の娘、十一代将軍家斉夫人)の御縁続きとして要望され、斉彬は嘉永六年(1853)に今和泉家から敬子(当時、一子)を養女にした。敬子は当時、十八歳だった。
この年齢は斉彬が天保六年(1835)、二十六歳のとき、鹿児島へ初入国、「政事見習御下国」をして、八ヶ月滞在したころからかぞえて、ぴったり十八年にあたる。敬子(篤子)が、この時の斉彬の秘密の子であったという説は、真実であったことになる。
(鮫島志芽太著『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−上巻』より抜粋)



 このように、鮫島氏は、元越前福井藩主であった松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の回顧談を元にして、天保6年当時まだ世子であった斉彬が、「薩摩に初入国した際に出来た隠し子が篤姫である」という風に論じています。
 確かに、最初に書いた「竪山武兵衛の公用控」の記述、そして「松平春嶽の回顧談」などから考え合わせると、鮫島氏が主張するように、篤姫が斉彬の実子であるようにも判断できます。
 しかしながら、実はこの二つの根拠には、大きな落とし穴があることに、私は最近になって気がつきました。その私の根拠を示す前に、まずは、鮫島氏とは反対に、「篤姫が斉彬の実子ではない」と判断されている芳即正氏の説を、少し長くはなりますが、その著書『島津斉彬』の記述から抜粋してみたいと思います。


慶永によると、篤姫は斉彬の実子とか妹だとの説があるという(『逸事史補』)。斉彬も嘉永四年ごろ伊達宗城に、天保六年帰国のときの子だが、将軍家慶の子初之丞を斉彬の養子にとの話があり、娘がいてはことわれないので一門にあずけたのだと申し送る。
『斉興公御譜』によると、天保五年正月城代市田義宜に広大院の方から養子話があった。これに対し市田は、慶長年間家老伊勢貞昌が将軍家に将軍秀忠の次男国若を島津家久の養子にとねがったところ、家康は源頼朝以来の島津家の血統を絶やすなと言って許さなかったという話を伝えて、広大院の申し入れをことわったとある(『追録』)。
だが、「大意」では、将軍に遠慮して養子話をことわれない広大院からは、一門でもよい、血統の近いものの子供がいたら実子ととどけでよとの話、折よく忠剛の妻が妊娠、しかし生まれたのは女子で、それでは駄目だと結局その話は立ち消えになった。
斉彬はその時の広大院の意思を生かそうと、表向き実子の姿にしたのだという。斉彬は宗城への前記書簡の最後に、本当は忠剛の娘だが、今回はどこまでも実子でおし通すので、含んでおいてくれとわざわざ断っている。篤姫が忠剛の娘であることは間違いない。
(芳即正著『島津斉彬』より抜粋、改行は筆者)



 芳氏が書いておられる「嘉永四年ごろ伊達宗城に宛てた書簡」とは、嘉永4(1851)年4月上旬に書かれたと伝えられている、斉彬が宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)に宛てた手紙のことです。この手紙については、『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』に収められているので、芳氏が指摘されている問題の箇所を抜粋していきたいと思います。
 まず、「天保六年帰国のときの子だが、将軍家慶の子初之丞を斉彬の養子にとの話があり、娘がいてはことわれないので一門にあずけたのだと申し送る」の部分は次の箇所です。


「無拠訳ニて一門江遣候義は、其頃初之丞様御養子之恐れ有之、娘有之候ては猶更との事ニて」
(『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』より抜粋)



 確かに、その通りに書かれています。

「よんどころなき訳にて、一門へ遣わし候儀は、その頃初之丞様御養子の恐れこれあり、娘これあり候ては、尚更のことにて」

 と、読み下し文に直すと、一層分かりやすくなるのではないでしょうか。
 次に、「斉彬は宗城への前記書簡の最後に、本当は忠剛の娘だが、今回はどこまでも実子でおし通すので、含んでおいてくれとわざわざ断っている」の部分は次の箇所です。


「極密は御存知之通り安藝娘ニ候得共、云々故、いつ方迄も実之処ニ申候筈、此節方々ニて承り候もの御座候間、此段申上候間、前文之趣ニて御含奉願候」
(『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』より抜粋)



 確かに、これもそう書いてあります。
 読み下しにすると、「極密はご存じの通り、安藝(つまり、島津忠剛のこと)の娘に候へども」や「前文の趣にて御含み願い奉り候」と書いていることでも、斉彬が伊達宗城に対して、

「その辺り(篤姫を実子だと嘘を押し通すこと)をどうぞ含んでおいて下さい」

 と説明しているのは明らかです。
 また、この書簡にはもう一つ重要なことが書かれています。それは次の部分です。


「名は篤(あつ)と申し候、江戸出生之娘は名てる、右之通りニて、両人共同腹ニ御座候」
(『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』より抜粋)
<注>てる姫の「てる」は漢字変換出来ませんでしたので、かな標記にします。

(現代語訳by tsubu)
「名前は篤(あつ)と申しまして、江戸で生まれた娘の名前は「てる」と申します。両人共、同じ母親から生まれた娘です」



 前稿「天璋院篤姫の出自について」において、斉彬が幕府などへの表向き、つまり対外的には、篤姫を寵愛の側室である寿満(すま)の方の子供としていたことを書きましたが、この伊達宗城宛に出した手紙の中でも、

「篤姫は、江戸で出生した娘・てる姫(後の29代藩主・忠義の正室)と同じ母親」

 と書いているように、寿満の方が母であるということで対外的には押し通すと斉彬は言っています。この記述からも、斉彬が公式的には、篤姫の母を側室・寿満の方にしていたことが分かります。ここは非常に重要な部分ですから、是非覚えておいて頂きたいと思います。

 さて、芳氏が書いておられる「斉彬の伊達宗城宛の書簡」を見ると、やはり「篤姫は斉彬の実子ではない」と判断できます。
 芳氏の書いておられる通り、伊達宗城に対して、「実子で押し通すので、含みおいて下さい」とわざわざ念押ししていることは、篤姫が養女である証拠ともなり得るものであると感じられます。
 それでは、鮫島氏が根拠として示されている『堅山武兵衛公用控』の記述はどうなるのか?
 そして、篤姫は本当は一体誰の子供なのか?
 通説の通り、島津忠剛の娘か?
 それとも、島津斉彬の娘なのか?
 いよいよ、ここから解決編に入りたいと思います。




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(-「篤姫斉彬実子説」の検証- 解決編@)



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