天璋院篤姫は島津斉彬の実子?
-「篤姫斉彬実子説」の検証C-


(-「篤姫斉彬実子説」の検証- 解決編@)
 まず、鮫島氏が根拠とされている『堅山武兵衛公用控』の記述を検証する前に、「篤姫は斉彬の実子である」とされている鮫島氏と、「篤姫は斉彬の実子ではない」とされている芳氏の両者が紹介されている、元越前福井藩主・松平春嶽の回顧談、

「篤姫は斉彬公の青年の時、お国入りされたころの秘密の子であるといい、さらには妹であるという説も聞いた」

 という話から検証していきたいと思います。
 くどいようですが、もう一度再抜粋します。鮫島氏は著書『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−』の中で、


また、松平春嶽は、
「篤姫は斉彬公の青年の時、お国入りされたころの秘密の子であるといい、さらには妹であるという説も聞いた」
と語っている(『昨夢紀事』他)。
島津家からの家定将軍への輿入れは、老中阿部正弘から、広大院様(島津重豪の娘、十一代将軍家斉夫人)の御縁続きとして要望され、斉彬は嘉永六年(1853)に今和泉家から敬子(当時、一子)を養女にした。敬子は当時、十八歳だった。
この年齢は斉彬が天保六年(1835)、二十六歳のとき、鹿児島へ初入国、「政事見習御下国」をして、八ヶ月滞在したころからかぞえて、ぴったり十八年にあたる。敬子(篤子)が、この時の斉彬の秘密の子であったという説は、真実であったことになる。
(鮫島志芽太著『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−上巻』より抜粋)



 と、書かれています。
 鮫島氏が書かれているように、確かに、当時世子であった島津斉彬は、天保6(1835)年6月23日から、翌7(1836)年2月19日までの約八ヶ月間、江戸から薩摩に帰国して滞在しています。
 鮫島氏は、この事実と松平春嶽の回顧談を元に、斉彬が薩摩に初入国し、滞在していた間に出来た秘密の隠し子が、篤姫だと言っているのです。
 しかしながら、前々稿「天璋院篤姫の出自について」でも書きましたが、『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』によると、篤姫の誕生年月日は「天保6(1835)年12月19日」となっています。
 つまり、この篤姫の誕生年月日では、斉彬の初帰国の時期と計算が合いません。斉彬が天保6(1835)年6月23日に帰国して、同年12月19日に娘(篤姫)が生まれたということは、まず常識から考えてもあり得ないことだと思います。
 また、斉彬自身が書き記したと思われる『御一条初発より之御大意』という史料が、『鹿児島県史料 斉彬公史料第四巻』所収の「堅山武兵衛公用控」に載っているのですが、それにも、


「私叔父安藝娘、私先年初て下向之年たん生之ものニて」
(『鹿児島県史料 斉彬公史料第四巻「堅山武兵衛公用控」』より抜粋)



 と、書かれています。
 つまり、斉彬が薩摩に初入国した年と、篤姫が誕生した年が同じであるということが書かれているのです。
 これから考えても、篤姫の誕生年は天保6(1835)年と考えるのが自然な見方ではないかと思います。

 ただ、私も幕末関係の「人名辞典」を数種類調べましたが、確かに篤姫の誕生年を「天保7(1836)年」としているものが多かったことは事実です。私の考えでは、おそらく人名辞典の記述自体が間違いであるとは思いますが、このような形で「天保7(1836)年誕生」と書かれていることは、もしかするとそういう説が別にあるのかもしれません。
 もし仮に、篤姫の誕生年が天保7(1836)年12月だったとすると、確かに鮫島氏の言うように計算はピッタリと合うことになります。ですので、この篤姫の誕生年月日だけを元に、「篤姫斉彬実子説」を完全否定してしまうのは、少し無理があるような気がします。
 そのため、別の角度から再検証したいと思います。
 それは、鮫島氏が一番の根拠とされている史料で、斉彬の側役を務めていた堅山武兵衛の『公用控』の検証です。
 煩雑にはなりますが、もう一度、鮫島氏が著書『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−』の中で、そのことについて書かれている部分を抜粋したいと思います。


なお、島津篤子(敬子)は島津一門の今和泉領主・島津安芸・忠剛の長女とされているが、次の史料により斉彬の実子であるといえる。斉彬の側役兼側用人としてつねに側近にいた竪山武兵衛・利武の「公用控(三)」の安政元年十一月十六日の記に、こう書かれている。

「篤姫様事、太守様御実子の儀にて、実の処(家中には)相知れず候につき、それにしても宜しからず候間、公儀むきへは申すことにもこれなく候えども、内実のところ、内々何ぞに記し置き候ように(斉彬様から)御沙汰あらせられ候につき、江田五郎左衛門(記録掛)へ達し置き候事」(鹿児島県『斉彬公史料』)

(鮫島志芽太著『国にも金にも嵌らず−西郷隆盛新伝−上巻』より抜粋)



 鮫島氏の文章を何度読んでも、確かに斉彬が「篤姫を実子だと内々に書き記しておくように」と側近の堅山武兵衛に指示し、そしてその竪山自身が、記録所の役人であった江田五郎左衛門にその旨を伝えるべく「公用控」に書き残した、というように読めます。
 ただ、この記述は鮫島氏が原史料の「公用控」を読み下ししたものですので、まずはこの原文の全文を抜粋して、私が後に新たに現代語訳を付けたいと思います。
 この史料は、『鹿児島県史料 斉彬公史料第四巻』に収められている「堅山武兵衛公用控」の安政元(1854)年11月16日の記述です。
 それには、次のように書かれています。


一、篤姫様御事、全
太守様御実子之儀ニて、実之処不相知候付、夫ニても不宜候間、
公義向江は申事ニも無之候得共、内実之処内々何そニ記置候様
御沙汰被為在候付、江田五郎左衛門江相達置候事、
(『鹿児島県史料 斉彬公史料第四巻「堅山武兵衛公用控」』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
一、篤姫様のことについて。
太守様(斉彬)の実子の事については、実のところは知らされていないが、そのままでは宜しくない。公儀(幕府)へ報告することでは無いが、内実のところを内々に何ぞの記録に書き記して置くようにとの太守様からの御沙汰があり、その旨を江田五郎左衛門に達して置いた。



 原文、そして現代語訳文、この二つを見た限りでは、どうしても「篤姫は斉彬の実子」であるように思われる方も多いのではないでしょうか?
 つまり、この文面だけを読めば、

「篤姫が実は斉彬の実子であるのに、記録上、養女としているのは宜しくない。なので、斉彬が内々にそのことを記録に残しておくように側近の竪山武兵衛に命令し、そしてその竪山自身が、そういう沙汰を斉彬から受けたので、記録所の役人である江田にそのことを達し置いた」

 と堅山が「公用控」に書き記したと読めます。
 私自身も判断には迷いながらも、この竪山武兵衛の記述を見た限りでは、「篤姫は斉彬の実子なのかもしれない……」という考え方も持ってはいました。
 しかしながら、この竪山武兵衛の記述には、実は大きな落とし穴があることを、私は最近篤姫について調べていく内に偶然に発見したのです。
 それは、『鹿児島県史料 旧記雑録追録八』の中に所収されてある(文書番号219番)「篤姫父母付一件」という史料です。実はこの文書の中に、篤姫の本当の父親を知る大きな手がかりがあり、今まで提起してきた様々な疑問を全て氷解する大きな証拠があったのです。
 このことについては、次の「解決編A」で書きたいと思います。




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