「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(4)会津嘆願運動の挫折
 慶応4(1868)年閏4月15日、岩沼の奥羽鎮撫総督府で九条総督が強引に受理させられた仙台藩と米沢藩が提出した三通の嘆願書(一つは会津藩提出のもの、二つは仙台・米沢両藩主が提出したもの、三つは奥羽諸藩の重臣連名のもの)を受け取った下参謀の世良修蔵は、下記のような通達文の草案を書き、それを総督府に対し、送り返しました。


「今般會津謝罪降伏嘆願書並奥羽各藩添願書被差出熟覧之處朝敵不可入天地之罪人ニ付難被及御沙汰早々討入可奏成功者也  鎮撫総督」
(日本史籍協会編『仙臺戊辰史二』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「今般、会津藩の謝罪降伏嘆願書並びに奥羽各藩の添願書が提出され、熟慮に及んだところ、朝敵は天地に入るべからざるの罪人につき、御沙汰に及ばれ難く、早々に討ち入って成功を奏すべきものなり。 奥羽鎮撫総督」



 この草案については、『防長回天史』などでは世良が書いたものではないという風に論じており、また従来から世良が考えたものか否かで非常に物議を醸し出しているものですが、『近世日本国民史』の中で徳富蘇峰が断じているように、当時の世良の書簡などを調べてみると、やはりこの草案は、当時の世良の意向を記したものと言って間違いないと思います。
 ただ、この草案を見ると、

「会津藩の嘆願は認めない。早々に攻めかかるように!」

 という、非常に強行的なことが書かれていますが、これを書いた時の世良は、おそらく前回抜粋した会津藩から提出された宣戦布告的な回答書を見ていたか、もしくはそういう回答書が提出されるという情報を得ていたかのどちらかではなかったか、と私は推測しています。
 なぜならば、この段階で世良がこれほどまでに強行的な文言を並べ立てて激昂したのには、それなりの大きな理由があったからではないかと思うからです。
 ここでは「会津藩の嘆願は認められない」と世良は強行的に言っていますが、後にはそれが打って変わって、世良は「会津藩の嘆願書を取りあえず京に持って行き、それを協議した上で処置しよう」という方向転換を計ろうとしています。この事実から考えると、この段階で異常なまでに世良の怒りが爆発し、このような強行的な草案を書き記したのは、それなりに激昂する理由があったからだと私は考えているのです。

 ただ、世良が会津藩の回答書を見ていたとするには、一つ大きなひっかかる点があります。
 九条総督が仙台藩主・伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲から、強引に三通の会津嘆願書を受理させられたのは、閏4月12日のことです。九条はそれをすぐに澤副総督や醍醐参謀、そして世良に送ったのですが、そうなると、閏4月15日に提出された会津藩の回答書が世良の元に届くのは、それからかなり後になってしまい、世良がこの通達文の草案を書く段階では、それを見ることは現実的に出来なかったことになります。
 しかしながら、世良がこれだけの強行的な草案を書いた理由には、やはり会津藩の挑戦的な回答書を見たか、その情報を得ていたかのどちらかと考えるのが、すんなり理解出来るのではないでしょうか。

 以上のようなことから、私は会津藩の回答書は閏4月15日より以前に提出された可能性があるのではないかと推測してみました。
 少し調べて見ると、『防長回天史』にも書かれてありますが、会津藩の回答書の日付を閏4月15日としているのは、仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』が元になっており、平石弁蔵が書いた『会津戊辰戦争』には、この回答書は「閏4月」とだけしか書かれていません。(また、会津藩側の史料である『会津戊辰戦史』には、どういう理由からか分かりませんが、この回答書自体の記述がありません)
 前述しましたが、閏4月12日の九条総督と仙台・米沢両藩主の話し合いが八時間にも及ぶ長時間になったのは、会津藩から強行的な回答書が既に送りつけられていたことが大きなネックになっていたのではないかとの推測も可能ではないかと思います。
 また、『仙臺戊辰史』の著者である藤原相之助は、別の著書『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末−』の中で、この時の世良の態度について、次のように書いています。


「会賊、朝敵天地に入るべからざる大罪人とは、世良の口癖のようにいっていたことだというが、しかし絶対に降伏を許さないというのではなく、近々総督府が白河城に移るから、その時、周旋の藩々とともに白河へ出て嘆願せよともいったことは、仙台の真田喜平太への手紙や、参謀書中にも見える。しかるにこうした御沙汰書をもって直ちに嘆願書を突返したのは、二本松藩士の書翰にあるごとく、逆上したようにカッと激怒しての所為だったというのが事実だろうという」
(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末』より抜粋)



 藤原翁が書いたように、世良が「逆上したようにカッと激怒」したのは、会津藩の挑戦的な回答書を見ていたか、聞いていたかのどちらかであると私は解釈しているわけです。

 これまで書いてきたように、世良が三通の嘆願書を見ただけで、これほどまでに強行的な草案を書くこと自体、どうも他に何か理由があり、世良を激昂させるような事実が他にあったのではないかという推測の元に色々と推理してみたのですが、読者の皆様はいかがお感じになられるでしょうか?
 ただ、私が書いたことはあくまでも推測であって、これには史料的な裏付けがまったくありません。このことに関しては、後日の課題として、今後も色々と調べていきたいと考えています。


 さて、話を戻しますが、世良としては、九条総督以下の公卿達がいかに穏便に済ましたいと考えていたとしても、この段階ではもう堪忍袋の尾が切れた感じであったと思います。
 世良はこの草案を元に、さらに一層強く、奥羽諸藩に対して「早々に会津へ攻め入れ!」と強硬な督戦を行ないます。
 そして、ここで窮したのは、今まで会津藩の嘆願運動に骨折って来た仙台藩と米沢藩です。

「謝罪は絶対にしないという方針の会津藩」
「謝罪が無ければ、会津藩を討伐する方針の奥羽鎮撫総督府」


 この両者との間で、仙台藩と米沢藩は板ばさみ状態となってしまったのです。
 また、仙台や米沢藩にとっては、会津藩の嘆願運動がここまでこじれてしまった現状を考えると、このままでは自分達の藩までもが会津藩と同等に見なされて、大きな火の粉をかぶるかもしれない、という大きな焦燥感や不安感が生じてきたと思われます。そして、彼らのその二つの感情が、やがて危機感へと変わり、会津強攻策を強行的に唱える世良を憎み、そして恨む気持ちへと動いていったのです。

 奥羽鎮撫総督は、前述のとおり公卿の九条道孝ではありましたが、彼ら公卿は言わば「お飾り的な存在」でしたし、総督府の実権は、やはり世良や大山と言った実質的な参謀にありました。
 しかしながら、いかに世良と大山が会津強攻策を唱えたとしても、九条は一応総督の身分であり、彼ら高貴な公卿連中が「穏便に事を済ませたい方針」を持っている以上、世良としては、これ以上ごり押しで事を進めるわけにもいかず、当時の奥羽鎮撫総督府内は、会津藩の処置に関して意見が分かれている状態でもありました。
 なぜなら、当時の九条や世良が書いた書簡、また総督府が奥羽諸藩に出した通達書などを見ると、その方針が二転三転していることに気付くからです。

 前回にも詳しく書きましたが、仙台や米沢藩は、その点に着目して、九条総督以下の公卿連中を何とか丸め込めば、会津処置も穏便に済ますことが出来るのではないかと、一縷の望みを託して嘆願運動を続けていたのです。
 しかし、強攻策を唱えて止まない世良がいる以上、彼らの運動はどうしても上手く進まなかったため、その影響で奥羽諸藩の間で世良を憎む気持ちが次第に高まり、そしてこのことが世良を暗殺しようとする動きへと繋がっていくことになるのです。
 『仙臺戊辰史』によると、世良を暗殺しようとする動きは、仙台藩内でも早くからあったようです。
 『仙臺戊辰史』や『会津戊辰戦史』といった奥羽諸藩側の記録によると、世良暗殺の指示を出していたのは、仙台藩家老の但木土佐であったという風に書かれていますが、私が思うに、但木が単独で決断したというわけではなく、仙台藩上層部の間では、「世良暗殺もやむなし」という空気が蔓延し、藩として容認していたということが真実ではないかと思います。
 また、仙台藩が世良を暗殺することに踏み切るか、それともそれを中止にするかの決断は、世良を含めた奥羽鎮撫総督府が、会津藩の嘆願を「受け入れるか否か」にかかっていたと言えるでしょう。

 仙台藩家老の但木土佐は、会津藩嘆願の見込みが立つまでは、それらの不穏な動きを押さえる立場を取っていたのですが、次第にその嘆願の見込みが立たなくなると、最終的には世良暗殺を容認する立場へと変化していきます。
 但木は「世良さえ居なければ、会津藩の嘆願は上手くいくのだが……」という認識を持っていました。
 後に世良修蔵暗殺事件の実質的な指揮官となる、仙台藩の会津討伐軍の先鋒隊の隊長であった瀬上主膳(せのうえしゅぜん)が、「会津降伏の一件はいかが相成るでしょうか?」と、但木の元に部下の姉歯武之進(あねはたけのしん)を送ったことがありました。瀬上は、会津藩との藩境である土湯口に出陣し、会津藩兵と向き合う形で対陣していた前線の司令官であったため、会津嘆願の見込みを但木に尋ねたというわけです。
 その時、但木は瀬上の使者である姉歯に向かって、

「九条総督は会津藩の降伏を受け入れる考えであるのだが、世良が頑としてそれを拒否する立場にいる」

 と答えていることが『仙臺戊辰史』の中に出てきます。
 この但木の話に象徴されるように、当時の仙台藩士の頭の中には、「世良さえ居なければ……」という気持ちが強くあり、世良のせいで会津藩の嘆願が上手くいかないという認識を持つ者が多かったと言えましょう。
 しかしながら、それは奥羽鎮撫総督府と会津藩との間で板ばさみになっている仙台藩側からの気持ちであって、実際は前回に書いたように、会津藩自体が謝罪を申し出る気が毛頭無いのですから、いや、もっと正確に表現すると、会津藩自体が嘆願は受け入れられないと最初から諦めて抗戦体制を取っているのですから、仙台藩の嘆願運動が元々上手く進むはずが無いのです。
 つまり、当事者の会津藩が強行的な方針を持っている以上、これは参謀が世良でなくても交渉は上手くいかないことは分かりきったことなのですが、仙台藩士らは嘆願運動が頓挫してしまった原因を世良に対してぶつけ、そしてその恨みを彼に集中してしまったのです。このことは、世良にとっても、そして仙台藩にとっても、非常に不幸なことであったと言えるでしょう。

 余り語られることがありませんが、東北の戊辰戦争については、こういった部分にも会津藩には大きな責任が生じていると思うのですが、読者の皆様はいかがお感じになられますでしょうか?
 会津藩は新政府軍の攻撃を一身に受けたことから、そのことばかりの「悲劇」が大きく喧伝されている実状にありますが、現代においては、戊辰戦争が起こらざるを得なくなった原因について、会津藩の責任も含めて、もう少し詳しく再検証する必要が私にはあると感じられてなりません。


(5)に続く




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(5)世良暗殺への動き



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(3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について



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