「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(5)世良暗殺への動き
 仙台藩士達の間で「世良憎し」の感情が強まる状況の中、奥羽鎮撫総督府の会津藩に対する方針はまたも二転三転していました。
 世良が何度も会津藩討伐の督戦を行なっても、奥羽諸藩の反応は非常に鈍く、また総督府内部でも、九条総督を始めとする公卿連中からは、

「一旦会津藩が提出した嘆願書を京都の太政官に報告して、指示を仰いだほうが良いのではないか」

 という声が起こっていたからです。
 この時点では、奥羽鎮撫総督府には単独で会津藩を討伐出来るだけの兵力は当然なく、どうしても仙台藩ら奥羽諸藩の力を借りなければならない現状にあったため、世良としてもこれ以上ごり押しで事を進められるような状況ではなく、かなり苦しい立場に置かれていたと言えましょう。
 おそらく、世良自身も「このままでは会津征討はおぼつかない……」と思い、日夜苦心していたに違いありません。
 しかし、そういった弱みを見せることは、世良には出来ませんでした。

 (1)でも詳しく考察しましたが、世良自身には、奥羽鎮撫総督府下参謀という大役を立派に果たしたいという責任感があり、それが世良自身の異常なまでの気負いとなってしまったのではないかと私は考えています。その気負いから、彼は最後の最後まで奥羽鎮撫総督府の弱みを見せないでおこうと意地を張り続けた結果、最終的には暗殺されてしまうことになるのです。本来なら、お互いの胸襟を開き合って、一歩踏み込んだ相談をしていれば、事態の打開にも繋がったのかもしれませんが、世良には重責と気負いからくるプレッシャーにより、そんな心の余裕はなかったのではないかと思います。
 また、新政府の方針自体が「奥羽諸藩の兵力をもって、東北全体を鎮撫する」という、とてつもない難題だったわけですから、世良自身も精神的にかなりおかしくならざるを得ない部分もあったのだと思います。
 このように仙台藩士の憎悪が世良に一身に注がれる最中の慶応4(1868)年閏4月19日。
ついに東北全土を揺るがす大事件が起こることになるのです。

 『仙臺戊辰史』によると、この日の午後三時頃、世良は岩沼の奥羽鎮撫総督府に向かう途中、同じ長州藩士の勝見善太郎と共に福島城下に入り、城下北南町にあった旅籠「金沢屋」に投宿しました。
 それから遡ること約三時間前の正午頃、当時世良暗殺を企てていた仙台藩士・瀬上主膳は、戦場であった土湯口の陣屋から福島城下に戻り、仙台藩軍事局が置かれていた城下の「長楽寺」に身を寄せていました。その後、瀬上は自らの定宿としていた城下で鰻料理屋を営んでいた「客自軒」へと入ったのですが、そこで世良が金沢屋に入ったとの知らせを受けたのです。
 実は、この瀬上の定宿であった「客自軒」は、「金沢屋」と通りを隔てた斜め向かいに位置しており、ほんの目と鼻の先という位置にあったのです。(「金沢屋周辺見取り図」参照)


(幕末当時の金沢屋周辺見取り図)


 世良が金沢屋に入ったとの知らせを聞いた仙台藩士らは色めき立ちました。

「世良討つべし!」

 との声が上がったのですが、この時点では世良が会津藩の嘆願を受け入れるかもしれない可能性があったため、奥羽鎮撫総督府付の軍事参謀であり、世良と共に福島城下に入った仙台藩士の大越文五郎は、

「世良を誅することに異議はないが、彼は会津藩の降伏を受け入れる意図を持っているかもしれない。なので、一応白石の本営に報告してくるから、それまでは待つように。それから世良を討っても遅くはない」

 と発言したため、瀬上はその場は引き下がらざるを得なくなりました。
 ここで大越が「世良を誅することに異議はない」と言っていることからも、当時の仙台藩内部では、世良を暗殺することを容認する動きがあったことがうかがえます。
 ただ、大越は世良暗殺に懐疑的な考えを持っていたため、仙台藩士で投機隊の隊長であった桜田敬助と共に福島城下を出発し、一路南の白石へと報告に向かったのですが、残された瀬上としては、この機を逃しては世良を討てないという認識があったようです。
 実際に、この大越が白石から福島に戻るまでの間に、既に世良は暗殺されてしまうことになるのです。

 それでは、大越が瀬上に言ったように、実際「世良自身に会津藩の降伏を受け入れる考えがあったのかどうか?」という点ですが、ここは非常に判断が難しいところです。私の個人的な考えとしては、情勢によれば、それもあり得たのではないかと考えています。これはこの後に書く、世良が大山格之助に宛てた密書の中にも少し触れられていますので、その時に簡単に書いてみたいと思います。
 大越の「世良暗殺は白石本営からの指示があるまで待て」との言葉を受けて、瀬上はその行動を自粛していたのですが、ここで事態が急変します。金沢屋にいた世良が、当時秋田の新庄にいた同じ下参謀の大山格之助に対し、密書を出そうとしていることを瀬上は聞きつけたのです。
 この辺りの事情は、この後、世良を襲撃することになる二つの藩、つまり仙台藩と福島藩の史料とでは、少し事実が食い違う部分があります。これはおそらく、世良を襲撃することに関して、福島藩は嫌々ながらも、それを手伝わざるを得ない状況に追い込まれた上での参加であったことが、その史料の記述の食い違いの大きな原因ではないかと私は考えています。
 後に詳しく書きますが、元来福島藩は、新政府に好意を寄せていた藩であり、瀬上ら仙台藩士が福島城下で世良を襲撃することについて、余り好意的な感情を持っていなかったものと思われます。
 福島藩としては、こういった状況下での世良襲撃参加であったため、世良暗殺の罪を少しでも軽くするために、後年その事情についての記述を少し書き改めたのではないでしょうか。こういうことは歴史にはよくあることですから、その可能性は十分にあると私は考えています。

 さて、少し長くなりましたが、仙台藩の記録と福島藩の記録、それぞれの違いを述べて、それらを折衷しながら、世良暗殺当日の状況や事情を書いていくことにしましょう。

 金沢屋に入った世良は、金沢屋の北に建てられていた土蔵作りの屋敷の二階、奥座敷の八畳の部屋に投宿していました。金沢屋では、この部屋を「世良さんの間」として、世良が宿泊する時には必ずこの部屋に通したということです。
 実は世良自身この金沢屋には、先月の4月16日から19日までの間宿泊したことがあり、金沢屋は非常に馴染みの深い宿屋であったのです。
 金沢屋の建物の間取り等については、高野孤鹿著『福島に於ける世良の遺蹟』に記述があり、また、金沢屋の子孫であられる斉藤友三氏が書かれた『長州藩士世良修蔵参謀百年祭にあたって』という小冊子にも簡単な金沢屋の平面図が記載されています。
 ただ、この両書だけでは金沢屋の全貌を掴みにくいことと、部屋の間取り等は話の大筋からは余り関係がないため、敢えてここでは省略したいと思います。


(6)に続く




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