「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(6)世良暗殺の密議について
 慶応4(1868)年閏4月19日、午後三時頃。
 早駕籠に乗って福島城下に入った世良は、定宿としていた「金沢屋」に投宿し、いつもの奥座敷に落ち着くと、当時秋田の新庄にいた下参謀の大山格之助宛てに、ある一通の手紙をしたためました。
 この一通の手紙が、世良が暗殺される大きなきっかけとなる有名な「密書」です。

 ちなみに、世良が福島に向かった際に用いた早駕籠には「二本松藩丹羽一学」という木札が吊るされていたことが、福島藩側の史料である『板倉家御歴代略記第参』(福島市史資料叢書第22輯)の中に出てきます。おそらく、世良自身も自らの身辺に危険が迫っていることをある程度察知しており、このようなカムフラージュを施していたものと思われます。
 と言うのは、世良が福島城下に入る前、彼は参謀の醍醐忠敬と八丁目宿(現在の福島市松川町)において、会津藩の嘆願や今後の方針について協議しているのですが、その際に醍醐から「身辺をくれぐれも注意するように」と忠告を受けたことが、醍醐の手記の中に出てきます。
 醍醐の忠告から、仙台藩士の間に不穏な動きがあるということを知った世良は、自分の身にある程度の危険が迫っていることを感じていたことは間違いないと思います。そのため「二本松藩士」と名乗って、福島城下に入ったのではないでしょうか。

 さて、世良が大山宛の密書を書き終えたのは、午後五時頃であったと言われています。そうなると、金沢屋に到着してから二時間かかって「密書」を完成させたことになります。
 しかし、後にこの密書の全現代語訳版を書きますが、その密書には時間として「八ツ半」、つまり午後三時と記されているのですが、これでは世良の金沢屋到着の時間と合いません。
 ただ、現在世良が書いた密書のオリジナル版がどこにあるのか分からない状態になっており、この密書が後世に書き換えられた可能性が高いこと。また、世良が金沢屋に到着したのを午後二時頃とする史料もあり、福島藩側の史料では夕刻としていたりと、世良の福島到着の時間を特定するのは非常に難しいことと、この辺りの時間の特定はそれほど重要なことではないと思いますので、世良は午後二時から三時の間に金沢屋に到着し、夕刻の午後五時頃に密書を書き終えたという風に、ここでは理解したいと思います。

 密書を書き終えた世良は、ここで福島藩の軍事掛を務めていた鈴木六太郎を呼び出し、鈴木は同藩の杉沢覚右衛門、遠藤条之助の二人と共に金沢屋に出かけました。
 福島藩の三人が金沢屋に到着した頃、既に世良の座敷では酒宴が始まっていたと、『板倉家御歴代略記第参』(福島市史資料叢書第22輯)には書かれています。
 そして、世良は金沢屋に来た三人の福島藩士達に対し、次のように言いました。
(ここは『仙臺戊辰史』と『板倉家御歴代略記第参』の仙台・福島両藩の史料を折衷して書きます)


「現在の形勢を一変させるには、頼みとするのは福島藩において他はない。なので、ここに一つ頼みたいことがある。秋田にいる大山格之助参謀宛に至急の書状を差し送りたいので、その使いの者を貴藩で人選して欲しい。国家のために尽力することを切に希望する。但し、使者は二人とし、明日の夜明けには出発させるようにしてもらいたい。また、このことは仙台人には決して洩らさぬように、極秘密にしてもらいたい」


 世良は自らの書いた「密書」を秋田にいる大山に無事に届けるために、福島藩に対し、極秘の使者の手配を頼んだのです。
 この世良の依頼に揺れたのが福島藩です。
 世良が仙台藩に内緒で使者を送るからには、それが非常に重要な要件を含んでいるということは、福島藩士達にとっても容易に想像がつくことでした。そのため、鈴木六太郎以下の三人の福島藩士達は、事が事だけに福島藩家老の斎藤十太夫に相談しに行ったのですが、ここからが福島藩側と仙台藩側の記録が食い違っています。

 まず、福島藩側の史料である『板倉家御歴代略記第参』(福島市史資料叢書第22輯)によると、金沢屋の表玄関から出た三人を、金沢屋の隣りにあった旅籠「立花屋」の二階から声をかけて呼ぶ人物がおり、それが瀬上の部下であり、瀬上と共に土湯口から引き返してきた姉歯武之進ら四人であったということが書かれています。
 鈴木ら三人が立花屋の二階座敷に上がると、そこには瀬上隊の姉歯武之進と大槻定之進、投機隊の田辺覧吉と赤坂幸太夫の四人が座っており、福島藩の鈴木らに対し、

「今夜、世良を捕り押さえることになったから、杉沢君と遠藤君の両名に立会いとして参加してもらいたい」

 と述べたと『板倉家御歴代略記第参』には書かれています。
 つまり、このことにより、後に福島藩が世良襲撃に加担せざるを得なくなったという風に書かれてあるわけです。
 この話は谷林博氏の『世良修蔵』の中にも引用され、『福島市史 近世編U』の中にもそう書かれていますが、金沢屋を出た鈴木ら三人を隣りの旅籠の二階から声をかけて呼び止めること自体、余りにも芝居がかかり過ぎていて、私にはどうもこのことは後世の作り話ではないかというような気がしてなりません。
 金沢屋に入った世良は、自分の身の危険を察知していたためか、金沢屋の周辺を従者に常に監視させていたという話が他の史料の中にでも出てきますから、仙台藩士らが隣りの二階座敷から福島藩士に不用意に声をかけるなど、このような目立つ行動を取るとはどうしても考えづらいからです。
 私が推測するに、おそらくこの話は、福島藩側が「已むにやまれず、世良襲撃に加担せざるを得なくなった」との正当性を後世に主張するがために、創作した話ではないかと考えています。

 それでは、事の真相は実際どうであったのでしょうか?
 ここからは、仙台藩側の史料である、実際に世良襲撃に参加した大槻定之進(安広)の書いた『大槻安広履歴』と福島藩側の史料を複合して書いてみたいと思います。

 まず、世良から密書を送りたいとの依頼を受けた鈴木六太郎以下の三人の福島藩士達は、その足で福島藩家老の斎藤十太夫の屋敷に向かいました。鈴木らから話を聞いた斎藤は、ここで苦渋の選択を迫られることになるわけですが、当時の福島藩は新政府側に好意を持ってはいながらも、東北の盟主的な存在である仙台藩の意向を無視して事を進めることは出来なかった状況にあったと言えましょう。
 この辺りの事情を理解・判断するには、奥羽諸藩のバランス的な問題をも念頭に置いて考えなければならないことであると思います。
 つまり、後世の感覚から考えると、福島藩としては新政府側に付いた方が良いように思えますが、それは後に奥羽列藩同盟が崩壊したことを知っている結果論を元にしての考えであって、当時の状況から考えると、福島藩単独で新政府に近づくことは、奥羽諸藩を裏切ることにも繋がり、それが藩としての死活問題になるという認識があったと考える方が非常に無難であると思います。

 さて、鈴木から事情を聞かされた家老の斎藤は、ここで「仙台藩の意向をはかれ」と命じたと私は推測しています。
 『板倉家御歴代略記第参』にも、家老の斎藤が鈴木ら三人に対し、

「此義各方ニ任セン可然取計ヘシ」
(このことについては、各々方に任せる。しかるべく取り計らうべし)


 と述べ、鈴木らが姉歯の元に向かったという風に書かれています。

 ここで話をまとめると、前述したとおり『板倉家御歴代略記第参』は、斎藤がそのような指示を出したのは、鈴木ら三人が立花屋の二階から仙台藩士らに呼び止められ、世良襲撃の依頼を受けた後であるという風に書かれているのですが、実際はそうではなく、金沢屋を出た鈴木らは、誰にも呼び止められることなく、そのまま家老の斎藤の屋敷に向かい、そこで「密使派遣云々」のことを話した結果、「それは非常に難しい問題であるから、まずは仙台藩に相談せよ」と斎藤が指示を出したと私は推測するわけです。この方が非常に自然な流れではないかと思います。
 また、この私の推測には一つの裏付けがあります。
 仙台藩史研究の大家であられた平重道氏の著作『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』の中に、世良襲撃に参加した大槻定之進の書いた『大槻安広履歴』という史料が記載されています。この『大槻安広履歴』によると、この辺りの事情は次のように書かれています。


「福藩遠藤氏・鈴木氏、我等両人ニ談ゼラル趣ハ、今度羽州筋大山格之助出張先迄密使遣スニ付不目立躰ニテ早足ノ者両人見立、今夜九ツ時迄ニ私等止宿ヘ密ニ遣スベキ儀尽力頼入ト申サルニ付、如何取計可然ヤト問ニ付」
(平重道著『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』所載『大槻安広履歴』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「福島藩の遠藤条之助氏と鈴木六太郎氏が、我ら二人(大槻と姉歯)に談じてきた内容は、(世良が)今度羽州方面に出張している大山格之助に宛てて密使を派遣したいので、なるべく目立たない容姿で早足の者を二人選んで、今夜午前0時までに私の宿舎(金沢屋)へ密かに派遣することに尽力して欲しいと申してきたことについて、それをどう取り計らえば宜しいでしょうか? と尋ねてきた」



 この大槻が書いた手記を読めば一目瞭然ですが、大槻と姉歯の元に、遠藤と鈴木が「密使云々」のことで相談をしに来たことになっています。
 『板倉家御歴代略記第参』及び『大槻安広履歴』を総合的に判断しても、先程私が推測したように、やはり真実は、世良から「密使派遣」という重要な依頼を受けた福島藩は、それを単独では処理することが出来ず、仙台藩に相談したという方がすんなり理解出来るのではないでしょうか。
 そして、この鈴木と遠藤から聞かされた「密使派遣」のことについては、大槻と姉歯は独断で決断することが出来なかったため、当時「客自軒」に居た二人の上司である瀬上主膳に、そのことを相談しに行きました。
 大槻の手記は、次のように続けています。


「六太郎同道瀬上氏え面会シ、密使云々ヲ問フ、瀬上氏曰ク、密使ハ甚怪シキ事ニ付、当人ノ望ミニ任セ一応密使指出シ、密書請取、我等ヘ差出ヘクトノ指揮ニヨリ、同夜九ツ半時ゴロ密使相仕立同人止宿へ六太郎連レ立去ル、即時密使書函ヲ渡サル、六太郎密使ト同道ニテ瀬上氏へ密書ヲ渡ス」
(平重道著『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』所載『大槻安広履歴』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「鈴木六太郎氏と同道して、瀬上氏に面会し、密使云々のことを問い合わせた。瀬上氏は、「密使の件は甚だ怪しいことである。取りあえず、当人の望みに任せて一応密使を差し出すことにし、その密書を受け取り次第、我らに差し出すように」と指示された。同夜の午前一時頃、鈴木六太郎が密使役の者を金沢屋に連れて立ち去ると、世良はすぐにその密使に書簡(密書)を渡した。その後、鈴木六太郎はその密使と同道の上、瀬上氏にその密書を手渡した」



 この大槻の手記を見れば、当日の模様が非常によく分かります。
 客自軒に居た瀬上は、鈴木六太郎から「世良が密使を差し立てたい」という要望があるのを聞いて、「これは重要な密書に違いない」と考え、「密書を受け取ったら、それを自分の所に持って来るように」と鈴木に裏で手を回していたのです。
 そして、瀬上は手に入れた世良の密書を開けて見たのですが、その密書には、奥羽諸藩にとっては非常に忌々しきことが書き連ねられていたのです。


(7)に続く




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