「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(7)世良修蔵の密書について
 世良修蔵と同じ下参謀を務め、当時秋田の新庄に居た薩摩藩士・大山格之助に対し、世良が金沢屋から発信した「密書」は、『仙臺戊辰史』の中に記載がありますが、非常に長文であるため、いくつかの段落に分けてその全文を抜粋し、それぞれに現代語訳を付け、簡単な解説を付けていきたいと思います。

 まずは、「密書」の一番最初の書き出しの部分からです。


「引続御配慮奉察候其御地追々賊退散ニ付日々御進軍想像致シ候扨右賊退去ノ事ニ付キ昨夜仙台藩坂本大炊ト申者態々白河へ申来候ニ付キ今般會津降伏謝罪ニ付庄内ヘモ早々兵ヲ引退謹慎可然段内使指立候故引上候訳ニテ何レモ官軍御勢相増候故逃去候義ニハ無之彼多勢之賊徒中々急引取候訳ニハ無之候間此段報知致置トノ事ニ御座候真否ハ不相分候得共申上置候」

(現代語訳 by tsubu)
「そちらでは引き続き色々とご配慮されていると察しております。次第に賊も退散し、日々一日進軍していると想像致している次第です。さて、その賊の退去の事について、昨夜、仙台藩の坂本大炊と申す者がわざわざ白河にやって来て申すには、庄内藩兵が藩境から撤兵したのは、今般会津藩が降伏謝罪したのと同様に、仙台藩が庄内藩に対し、兵を早々に引き退けて謹慎するようにとの内使を差し立てたためであって、官軍の勢いが益々盛んになったため、庄内藩兵が逃げ去ったというわけではないとのことです。また、庄内藩兵は多勢であるので、急には退却出来ないかもしれないということを報告しますとのことでありました。このことについては、真偽のほどはよく分かりませんが、一応申し上げておきます」



 密書の冒頭部分は、秋田新庄に滞陣する大山に対し、日頃の苦労を慰めると部分と、仙台藩の坂本大炊が、当時白河に居た世良の元にやって来て、「庄内藩兵の解兵は官軍の勢いを恐れたためではなく、そういう使者が仙台藩から庄内藩に出されたためである」ということを報告したことが書かれています。
 坂本大炊という人物は、(1)において書きましたが、「仙台藩一藩をもって会津攻めを行ないたい」と内願したのではないかと私が推測した人物で、当時彼は仙台藩内部でも勤王派と目されていた人でした。
 坂本は藩内に世良暗殺計画があることを知り、何とかそのような暴挙に出ることを避けさせるため、仙台藩家老の但木土佐に対し、次のように言ったことが『仙臺戊辰史』に書かれています。

「会津藩の降伏を総督府が受け入れないのは、世良がそれを拒んでいるからであるということは、奥羽列藩の所見に過ぎない。もし、このために暴挙(世良の暗殺)に出る者があっては、さらにまた時局を困難なものとする愚がある。なので、私が世良の元に出向き、彼に対して、会津藩の嘆願書を受理して、奥羽列藩を解兵させ、奥羽鎮撫の実を挙げるように篤と説得してきたい」

 坂本としては、日に日に高まる「世良暗殺」について、何とかそれに歯止めをかけたいと考え、但木にそう申し入れ、世良が暗殺される三日前の閏4月17日、当時白河にいた世良にわざわざ会いに行ったのです。
 しかし、当人の世良は坂本のその説得に対し、即答を避けて「その件についてはいずれ九条総督と相談の上、追って沙汰する」とだけ答え、坂本の説得は結局失敗に終わりました。密書の前半には、この時の内容が簡単に触れられているというわけです。
 それでは、密書の方に戻りましょう。


「就テ十五日御仕出シ御書面今晩本宮へ到着拝誦大ニ安心仕候先達以来噂相聞候會賊降伏謝罪嘆願書三通過ル十二日仙米両中将岩沼へ持参且演舌ヲ以申陳ニハ容保義恭順謹慎ハ勿論向後開城可致心底之所兎角激徒共内乱ヲ生ジ官軍ニ対シ如何様之不法仕候モ難計左様ニテハ彌容保罪難遁心痛仕候間何卒寛大之御處置ヲ以減地ハ勿論暴臣共之首級可指出次第ニテ謝罪被聞届朝恩奉感戴候様致度且両中将モ嘆願申述候右御取上無之彌討會ニ相成候テハ両國之人民及難渋蜂起之徒追々出来鎮静謝罪多端ニ成行各藩疲弊終ニハ社稷難保場合ニモ至リ勤王之赤心届兼却テ恐入候次第ニ付何卒會之願ニ不拘各藩之願ヲ以奥羽両國之民安堵為致候様思召ヲ以速ニ御裁許願度段申出一旦総督ニモ右三書指返シ相成候得共右段之訳ヲ以総督ヲ要シ夕七ツ時ヨリ夜九ツ時迄詰居先慶喜主上ヲ奉要徹決而會之指図ト相見得可悪之甚敷ナリ遂ニ不止得御取上ニ相成候由ニテ当十五日白川へ到来有之申候」

(現代語訳 by tsubu)
「ついては、15日にお送り頂いた御書面、今晩本宮へ到着し拝読いたしましたが、大いに安心いたしました。先達て以来、噂で聞こえているとは思いますが、会津藩に関する降伏謝罪嘆願書三通を、先日の12日、仙台と米沢の両中将(両藩主のこと)が岩沼の総督府へ持参し、かつ弁舌をふるって陳情に及びました。その内容とは、
「容保公自身は恭順・謹慎はもちろんのこと、今後開城する心底であるのですが、とかく過激派の連中が内乱を生じて、官軍に対しどのような不法な行動に出るやも計り難く、こんな状況ではいよいよ容保公の罪は逃れがたいものとなると心痛いたしております。そのため、なにとぞ寛大な処置をもって、領土の減地はもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すつもりでいますので、その謝罪を聞き届けて朝恩を賜りたい」
ということで、その趣旨を両中将が嘆願に及んだ次第です。
また、両中将は、
「この嘆願をお取り上げにならず、いよいよ会津討伐ということになってしまっては、両国の人民が難渋に及び、また蜂起する輩も次第に生じ、それを鎮静し謝罪することも多くなってしまい、奥羽各藩は疲弊して、ついにはその社稷を保ちがたい場合にもなり、我々の勤王の赤心が届かず、却って恐れいる次第になってしまいます。そのため、なにとぞ会津藩の願い出ということにこだわらず、奥羽各藩の願い出だと思って、奥羽両国の人民を安堵させて下さるような思召しを速やかに御裁可下さいますようお願いいたします」
と申し出でたということです。九条総督におかれましては、一旦三通の嘆願書を差し返されたのですが、両中将は先程書きました趣旨を総督相手に、夕方の午後4時から夜中の午前0時まで詰め寄ったのです。前将軍の徳川慶喜が主上(天皇)を要して行なったことを会津藩の指図と見るのはいかがなものであろうか、と彼らは申した次第です。そのため、ついに九条総督はやむを得ず、その嘆願書をお取り上げになられたということを当15日に白河へ知らせがありました」



 この部分は、以前少し触れましたが、会津藩の降伏謝罪についての「三通の嘆願書」を仙台と米沢の両藩主が岩沼の総督府に持参して、九条総督相手に八時間もの長時間、談判して詰めより、それを受理させた経緯が事細かに書かれています。
 世良の文面からもじみ出ていますが、仙台と米沢の両藩主は、自らの持つ圧倒的な兵力を背景にして、いわば強引に九条総督にその嘆願書を受け取らせたのです。
 おそらく、仙台と米沢の両藩主は、九条総督に嘆願書を受理させるために、その時かなりの圧力をかけたのではないでしょうか。また、それらの圧力を跳ね返すことは、公卿の九条総督には当然無理だったと言えるでしょう。
 世良の密書はまだまだ続きます。


「右之訳ニテ総督府兵力トテハ一人モ無之押テ返セバ今日ヨリ両藩會ニ合候様ニ相成可申少々ニテモ兵隊有り之候ハバ押付出来申候へ共迚モ六ケ敷宇津宮モ追々賊所々蜂起シテ干今不来大ニ込リ申候乍併一旦総督取上ニ相成候ヲ亦返ス訳にも参不申候間此上一應京師へ相伺奥羽之情実篤ト申入奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ致度候ニ付乍不及小子急ニ江戸へ罷越大総督府西郷様ヘモ御示談致候上登京仕尚大阪迄モ罷越大挙奥羽ヘ皇威之赫然致候様仕度奉存候此嘆願通ニテ被相免候時ハ奥羽ハ一二年ノ内ニハ朝廷之為ニナラヌ様可相成何共米仙ノ俗朝廷ヲ軽ンズルノ心底片時モ難図奴ニ御座候右大挙ニ相成候時ハ払底ノ軍艦ニテモ坂田沖へ二三艘廻シ人数モ相増前後挟撃之手段ニ致候外致方無之越後口ヘモ近況可申遣尤モ庄内ヘハ急ニ可討入様可被致候此件モ篤ト御相談ノ上取計可申訳ニ候ヘ共一日長引時ハ一日丈之俗論沸騰不忍聞候間千万失敬之義僭越之至ニ御座候得共書中ニテ申上置キ直ニ出足上方ヘ出懸候間副総督府様ヘモ宜被仰上可被下候」

(現代語訳 by tsubu)
「このようなわけにて、総督府の兵力は一人もなく、嘆願書を押し返しては、今日から両藩(米沢と仙台藩)は会津藩と共同する事態になるやもしれず、少数でも兵隊が居たならば押し返すことも出来たのですが、それもとても難しいことでありました。宇都宮方面も次第に賊徒が蜂起しているため、援軍もこちらに来ず、とても困っている状態です。しかしながら、一旦総督が受理した嘆願書をまた返すわけにもいかず、この上は一応京都へ出向き、奥羽の実情をじっくりと申し入れて、『奥羽皆敵』と見なして、逆襲の大策を練りたいと思っております。及ばずながら、私が急いで江戸に行き、大総督府の西郷様に相談して、京都に上り、なお大坂まで行きまして、大挙兵を挙げて奥羽へ戻り、皇威を盛んに示したいと思っている次第です。また、今回の嘆願が通り、その罪が許されることになったとしても、奥羽は一、二年の内に朝廷のためにならない動きをするでしょうし、米沢や仙台藩の賊は、朝廷を軽んじる心底があるので片時も油断にならない奴です。先程申したような大挙兵を挙げての討伐になった時には、数少ない軍艦で良いので酒田沖に二、三艘まわして、兵員を増やし、前後から挟撃する方法しかないと思われますし、また越後口方面へも近況を知らせ、当然、庄内藩へは早急に討ち入ってはいかがかと思います。これらの件につきましても、じっくりと相談の上取り計らうつもりでありますが、一日長引けば一日だけ俗論が沸騰し、聞くに忍びない状況になってしまいますので、失礼なこととは重々承知しておりますが、書中にて申し置きました次第です。私が上方に向けてすぐに出発するつもりであることを、沢副総督様へも申し上げて頂きますようお願いします」



 この部分には、仙台と米沢藩が提出した嘆願書を受け取らざるを得なかった理由を、「兵数の不足によってである」ということが書かれています。この文面を見ても、当時の奥羽鎮撫総督府の兵力不足の状況がよく分かるのではないかと思います。
 また、この文面からは、当時の世良の正直な感情、つまり「負け惜しみ的な強がりを言う一面」が非常によく表れているのではないかとも思います。
 当時の世良は、兵力不足でかなり苦しく追い込まれた状況下にいましたが、逆にそのことで弱みを見せないためにも、必死に強がりを言うようになり、彼をより一層強気な態度に出させたとも言えましょう。
 この辺りは心理学的な側面から検証しても面白いかもしれません。こういう世良の態度が奥羽諸藩を激昂させることになるわけですから、この点から考えると、やはり世良には奥羽諸藩と折衝する役目は重すぎたと言えるかもしれません。

 話を戻して、世良は次のようにも書いています。

「一旦総督が受理した嘆願書をまた返すわけにもいかず、この上は一応京都へ出向き、奥羽の実情をじっくりと申し入れて、『奥羽皆敵』と見なして、逆襲の大策を練りたいと思っております」

 この一文の中に、世良が暗殺される直接の原因となったとも言われる
『奥羽皆敵』という言葉が出てきます。この『奥羽皆敵』という言葉が、仙台藩士達を激昂させて、彼らをしてついに世良を暗殺しようと動かせる大きなきっかけとなるのです。

 では、世良はなぜこういった過激なことを密書の中に書いたのでしょうか?
 確かに、世良としては、何度督戦しても動かない奥羽諸藩を見て苛立ちを感じ、「奥羽は皆敵である」という気持ちは常に持っていたことでしょう。
 ただ、彼がこの書簡の中で『奥羽皆敵』と書いたのは、そういう気持ちよりも先に、兵力不足に常に悩まされている奥羽鎮撫総督府に、何とかして援軍をもらいたいという一心から出た言葉ではなかったかとも考えられます。
 つまり、「奥羽諸藩は皆敵のようなものです。なので一刻も早く援軍を出してもらいたい」と、京都の太政官に陳情しようと考えている気持ちが、つい手紙の文面に出てしまったのではないかとも思われます。
 また、この密書を読んで気付くのは、世良が異様なまでに焦っていることです。この密書からは、何とか早く江戸や京に行って奥羽の実状を事細かく説明し、この追い込まれた現状を何とか打破したいという強い気持ちが非常に強く感じ取れます。
 焦るがゆえに、過激なことを言い、そして書く。
 この当時の世良の精神状態は、少し異常なものであったとも考えられます。

 そして、世良の密書は最後に近づきます。


「別紙嘆願書會ト仙米中将名前之分ハ早々札場ヘ書出公然ト人ニ見セ当分人気ヲ静メ且亦桑折其他ヘ築立候砲台モ今日ニテハ却テ賊之固メト相成候故人気鎮静ノ義ニ関係トイフ訳ヲ以テ悉ク崩シ候様可申付ト存候仙モ内輪ニ於テハ公然ト嘆願不相叶時ハ反逆之咄モ致居由勿論弱国二藩ハ不足恐候得共會ヲ合シ候時ハ少々多勢ニテ始末六ケ敷成丈二藩ハ穏便ニシテ可謀尤二藩中ニモ両三人ツ〃外賊徒魁ハ無之主人ハ好人物ナラン右御示談旁呈一書候小生出立ノ後ハ何モ平坂信八郎ヘ託シ少々之事ハ中村小次郎ヘモ頼置候間大体之所ハ醍醐参謀卿ヘ申上置候大抵之事ハ指置候様致シ度候早々頓首
後ノ四月十九日八ツ半時
途中ヲ恐レ福島藩足軽ヲ頼ミ持参為致候申モ疎ニ候得共御覧ノ上御投火可被下候」

(現代語訳 by tsubu)
「別紙の嘆願書で会津藩と仙台・米沢の中将の名前が記載されてあるものについては、早々に公の札場に高札を立てて民に見せ、当分の間、民心を鎮静し、また桑折やその他の場所に設置されている砲台については、今日においてはかえって賊の本拠ともなっているので、民心を鎮静させることを名目にして、ことごとく破壊するように申し付けられることが必要であると思います。仙台藩の中でも、会津藩の嘆願が叶わない場合には、新政府に対して反逆する計画があると公然と言っている話もあるようです。もちろん、弱国二藩は恐れるに足らない存在ですが、会津藩と合体しては少々多勢となってしまって、その始末も難しくなってしまいますので、なるだけ二藩は穏便に済ませるように事を謀るべきかと考えております。もっとも、二藩の中でも三人ずつくらいしか賊徒はおらず、またその藩主はお人好しです。これら相談したい事を今回一書に書き認めました。私が出立した後は、何れのことも平坂信八郎に託しておきますし、少々のことでしたら中村小次郎へも頼んで頂いて結構です。また、その概略等につきましては、醍醐参謀卿へも申上げて置きましたが、大抵のことについてはまた差し置き下さいますように。
4月19日、午後三時に記す。
この書簡は、途中で奪われるのを恐れて、福島藩の足軽にそちらに持参するように頼みました。ご覧になった後には、燃やして頂きますようお願いいたします」



 この世良の密書の最後の部分を読めばより強く感じて頂けるのではないかと思うのですが、世良の書き方は、やせ我慢をしてどうも意地を張っているようにしか私には感じられません。仙台藩や米沢藩のことを「弱国二藩は恐れるに足らない」などと書きながらも、現実はその仙台藩や米沢藩の強い圧力に屈服せざるを得ない状況になっていますし、また、「会津藩と組まれては少々多勢で始末も難しい」などと書いている辺りは、強がりを言いながらも、ふと弱音をもらしているとも感じ取れます。
 このように世良が書いたこの強気な発言が続く文面からは、逆に当時の奥羽鎮撫総督府の苦境が読み取られるような気が私にはするのです。

 ここまで長々と書きましたが、これが世良が書いた「密書」の全文です。
 ただ、この密書は後で書き換えられた可能性が非常に高いことが現代では指摘されています。
 山田野理夫氏の『東北戦争』によると、この「世良密書」の現物は全部で四通もあるらしく、所々が書き換えられた可能性が高いということです。

 確かに、世良の暗殺は、東北における一大事件となり、後に仙台藩はその罪を責められることになりますから、「密書」の内容を書き換えて、より過激な文言を並べ立てることにより、「世良の暗殺は仕方の無いことだった」ということ、つまり暗殺の正当性を主張するためにも、こういった過激な文言を並べ立てて、当時の世良暗殺は仕方の無いことであったことを印象付けることも当然行なわれたのではないかと考えられます。
 ただ、世良の密書の中に、仙台藩士らを激昂させるような言葉が書かれていたことは間違いない事実であると思います。


(8)に続く




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