「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(8)世良修蔵暗殺の顛末
 世良が大山に宛てた「密書」を読んだ瀬上主膳以下の仙台藩士達は激昂しました。特に、『奥羽皆敵』という世良の言葉に、仙台藩士らは激しい怒りを覚えたと伝えられています。
 仙台藩士達は、「世良を暗殺するか否か」の基準としていた「会津藩嘆願の受け入れの可否」について、世良自身は受け入れるつもりはないと、この密書を読んで判断しました。
 確かに、この密書の内容が本物であれば、仙台藩士らがそのように判断したのも致し方のないことであったろうと思います。
 また、瀬上の元に、世良が翌朝の午前六時に出発するので人夫を差し出すようにと命令したとの情報が届き、ここに至って、瀬上は大きな決断を下しました。
 瀬上は、「この上は白石の本営の指示を待つまでもない」と世良の暗殺を決断し、客自軒において、世良襲撃のための計画を練り始めたのです。
 世良襲撃のために選ばれた者は以下の人々です。


(仙台藩士)瀬上隊軍監・姉歯武之進、大槻定之進、瀬上隊書記・岩崎秀三郎、瀬上隊監察・小嶋勇記、参政書記・松川豊之進、末永縫殿之允、投機隊・田辺覧吉、赤坂幸太夫

(福島藩士)用人・鈴木六太郎、目付・遠藤条之助、番頭・杉沢覚右衛門



 また、彼ら正式な武士の他に、浅草宇一郎(あさくさういちろう)という目明しが、世良襲撃に手を貸すことになりました。
 浅草宇一郎は仙台藩領大河原の出身で、当時は福島城下で旅籠「浅草屋」を営みながら、目明しを兼ねていた人物でした。
 この「浅草屋」は、世良が居た「金沢屋」、そして瀬上が居た「客自軒」とも目と鼻の先にあり、『仙臺戊辰史』によると、浅草は直接瀬上の元を訪れ、「当地にて召し捕り物がある際には、我ら卑賤の者が先にあたります」と世良襲撃に参加したいと申し出たことが書かれています。

 しかし、福島藩側の記録である『板倉家御歴代略記第参』(福島市史資料叢書第22輯)では、その辺りの事情が少し異なっています。
 『板倉家御歴代略記第参』によると、世良を襲撃するためには、金沢屋の間取り、その周辺の事情や地理に詳しい先導役が必要であると仙台藩士らは考え、瀬上の部下である姉歯武之進が当時目明しであった浅草宇一郎の元に出向き、金沢屋への手引きを依頼したのですが、浅草は「他藩の者の命令は受けない」とその命令をを断ったと書かれています。
 そのため、仙台藩士らは已むなくそのまま金沢屋を襲撃することになったと書かれているのですが、これは少し事実とは違います。

 まず、(6)で引用した世良襲撃に実際に参加した大槻定之進の書いた『大槻安広履歴』には、浅草宇一郎の子分19人が世良襲撃に参加したと書かれており、瀬上が後年書いた「始末書」(明治3(1870)年11月に禁固中の瀬上が藩庁の命令で世良暗殺の始末を書いたもの)にも、浅草が子分を率いて襲撃に参加したことが記されています。
 また、後に詳しく書くことになりますが、『浅草宇一郎伝』の作者である庄司重男氏によると、瀬上が定宿としていた「客自軒」の女将は、

「仙台領大河原生まれの浅草宇一郎の女房クラの娘で、宇一郎はその後見をしていた」

 と述べられています。
 つまり、このことから考えると、瀬上と浅草とは元来から周知の間柄であったと思われます。
 そして何よりも、この浅草宇一郎という人物は、世良の死後、彼の菩提を弔うべく、慶応4(1868)年6月に桑折の無能寺に永代供養料として金三両を寄付しています。
 もし浅草が世良襲撃事件に何ら関係しなかったとすれば、彼が世良の永代供養料などを寺に納めるはずがありませんので、浅草はこの世良襲撃には必ず関係したものと考えて間違いはなさそうです。
 後に詳しく書きたいと思いますが、おそらく浅草は、世良襲撃には余り乗り気ではなかったものの、福島藩や瀬上との関係上、やむを得ず襲撃に参加せざるを得なくなったのが実情ではないでしょうか。

 さて、瀬上の定宿である客自軒において、世良襲撃のための実質的な計画を練った仙台藩士らは、日づけが変わった20日の午前二時頃、いよいよ行動を起こしました。
 まず、金沢屋の表口を仙台藩士の松川豊之進と末永縫殿之允、裏口を大槻定之進と岩崎秀三郎、庭先を浅草宇一郎の子分らが固め、世良を取り逃がすことの無いように万全の態勢を組みました。
 また、世良の寝所を実際に襲う行動隊には、鈴木六太郎以下の三人の福島藩士も含まれていました。福島藩はこのようにして、世良襲撃に加わることになったのです。
 前述したように、世良の寝所は、金沢屋の北に建てられていた土蔵作りの屋敷の二階、奥座敷の八畳の部屋でした。
 福島藩側の記録である『板倉家御歴代略記第参』は、当時の世良の状況を

「捕縛サルルトハ夢知ラス安眠イヒキ雷ノ如ク」

 と書いています。
 その日の夜の世良は、密書を福島藩士に渡し終えると、翌日早朝の出発に備えて、完全に深い眠りに入っていたのです。

 また、『仙臺戊辰史』によると、まず仙台藩士・姉歯武之進が、浅草宇一郎を使って金沢屋の主人である斎藤浅之助を呼び出し、世良と一緒に寝ていた遊女を「急用がある」と言って呼び戻すように命令しました。
 テレビドラマや小説などでは、世良が仙台藩士らに襲撃された際に、遊女と共に寝ていたところを踏み込まれる様子がよく描かれていますが、残された史料を総合的に判断すると、やはり当時の世良は遊女と共に寝ていたことは間違いないであろうと思われます。
 前述したように、世良を襲撃するにあたって、仙台藩士らは世良と一緒に寝ていた遊女を事前に呼び戻したと『仙臺戊辰史』には書かれていますが、『大槻安広履歴』及び『板倉家御歴代略記第参』によると、仙台藩士らが世良を襲撃した際、遊女はまだ部屋に居たという風に書かれています。
 また、『仙臺戊辰史』の著者である藤原相之助は、別の著書『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末−』の中で、


「また金沢屋の後家ツルは世良に侍している女を窃かに避けさせるため二階廻りの女にいいつけたが、女は腰が抜けたようになって立てない。ツルはブルブル慄えながら世良の室に入り、女を揺り起し、手真似で早く逃げよという意を示した。女は案外沈着でソッと床を抜け出て、長襦袢の上へ細帯をしめ、落ちていたかんざしを拾ってさし、世良の寝顔を一瞥して、ツルに目配せしながら去ろうとした時、雷のように飛び込んで来たのは、赤坂と遠藤だったという」


 と書いていますが、これは余りにもドラマティック過ぎるので、真実であるかどうかはかなり怪しいでしょう。
 ただ、これらの史料には全て遊女の存在が出てきますので、世良が遊女と共に寝ていたところを襲われたことは間違いない事実ではないかと思いますが、遊女と添い寝をしていたことをもってして、世良の人物評価に繋げることは、ある意味、彼にとっては非常に酷なことでしょう。現代の感覚をもってして、当時の「善悪」は簡単には判断出来ないと思いますので。

 さて、準備を整えた世良襲撃隊の一行は、世良に気付かれること無く、ひっそりと世良の寝所へと近づきました。
 『仙臺戊辰史』、『大槻安広履歴』、『板倉家御歴代略記第参』、『瀬上主膳始末書』などの複数の史料を総合して判断すると、まず真っ先に世良の寝所に飛び込んだのは、仙台藩士の赤坂幸太夫であったと思われます。真実かどうかは分かりませんが、『仙臺戊辰史』によると、赤坂が世良の寝所に突入すると、世良は異変に気付いて起き上がり、一緒に寝ていた遊女の名を叫んだと書かれています。
 襲撃を受けた世良は、ここでピストルを取り出し、それを発射しようと試みましたが、なぜかそれは不発に終わりました。
 また、世良一人に対して数人がかりで襲撃したのですから多勢に無勢です。世良は必死に応戦しましたが、当然寝込みを襲われているので、思うままに抵抗することは出来ませんでした。
 『仙臺戊辰史』では、世良はこの室内で取り押さえられ、捕縛されたと書かれていますが、実際のところ世良は、何とか窮地を脱し、二階から一階の庭へ飛び降りたことが真相のようです。
 『大槻安広履歴』によると、当時の世良は次のような行動を起こしたと書かれています。


「世良殿捕縛ノ時赤坂氏向フ、此時世良氏娼妓衾ヲ同フシテ居タリ、同人向フト、ヒシトルヲ同氏ニムケタルモ不発、単物一枚ニテ二階ヨリ飛下リ切石ニ頭部シタタカ傷ク、存命難斗躰容ナリ」
(平重道著『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』所載『大槻安広履歴』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「世良殿を捕縛した時、赤坂氏が向った。この時、世良氏は遊女と一緒に寝ていたが、赤坂氏が向うと、ピストルを同氏に向けたが不発に終わった。世良氏は単物一枚だけで二階から飛び降り、庭にあった切石で頭部をひどく打ちつけて傷つき、命があるかないか計り難い容態であった」



 この手記を書いた大槻自身は、金沢屋の裏門を固める役目であったので、世良が飛び降りた際の状況は実際にその目で見たことでしょう。そのため、この話は非常に信憑性が高いものと思われます。
 大槻の手記によると、世良は室内で捕縛されたのではなく、二階から庭に飛び降りた際、庭石で頭部に大けがを負い、捕縛されたというのが真相であると思われます。
 また、その頃世良と同じく金沢屋に宿泊していた同じ長州藩士の勝見善太郎もまた、仙台藩士らの手によって捕縛されていました。この勝見もまた、二階から飛び降りたところを捕らえられていたのです。
 かくして、世良と勝見は仙台藩士らの手によって捕縛され、金沢屋の裏口から引きずり出されて、瀬上の宿所であった客自軒へと連れて行かれました。
 世良と勝見は客自軒の庭に引き出され、そこで尋問を受けたのですが、『仙臺戊辰史』ではここで世良が、

「密書露見の上は是非にも及ばず。不心得の段は深く謝すので、願わくば広大な慈悲をもって命を助けてもらいたい」

 と命乞いをしたことになっていますが、これは世良の評価を落とすために作られた後世の創作であると思われます。
 世良は、戊辰戦争勃発のきっかけともなった人物として、東北地方では非常に評判が悪く、後世彼のしたことをややもすれば誇張する風潮があったので、こういった話は後々に世良自身の人物の評価を落とすために作られた作為的なものであると言えるでしょう。
 実際に世良の尋問に加わった大槻定之進によると、実際の世良は次のような状態であったと書かれています。


「流血面ヲ蔽フ、依テ眼上ヲ布ヲ以テ結フト雖モ全躰ヘ流血シ負傷不少、瀬上氏以前ノ密書ヲ出シ世良氏ヲ尋問ス、小嶋勇記並安広モ問フと雖モ更ニ答ヘラレズ、暫クアリテ失謀セリ」
(平重道著『(仙台藩の歴史1)伊達政宗・戊辰戦争』所載『大槻安広履歴』より抜粋)

(現代語訳 by tsubu)
「流血が顔面を蔽っていたので、眼の上に布をもって結んでいたが、体全体に流血し、負傷は非常に大きかった。瀬上氏は以前の密書を差し出して世良氏を尋問し、また小嶋勇記と私も尋問したが、世良氏は答えることが出来ない状態で、しばらくして彼は失神した」



 つまり、捕縛後の世良は、もう言葉を発することが出来ないほどの重傷を負っており、命乞いなど出来る状態ではなかったのです。
 世良が尋問に耐えられないと分かった結果、当初は世良を白石の本営に運んで尋問しようという話も出ていたのですが、結局そのまま福島の地で処刑されることになりました。
 世良が白石に運ばれず、福島で即処刑されることになったのは、彼自身が重傷を負い、もう息も絶え絶えになっている状態であったことが大きいようです。世良は輸送に耐えられないものと仙台藩士は判断し、彼を即斬首することに決定したものと思われます。

 世良は、仙台藩軍事局の置かれていた長楽寺の裏を流れる阿武隈川の川端である腰浜村大字下河原という場所に引っ立てられ、そこで勝見共に首を刎ねられました。
 首を刎ねられた世良の所持品のリストが『仙臺戊辰史』の中に記されています。それは次のようなものです。

一、元込ミニエール銃一挺 一、ピストル一挺  一、短刀一腰
一、刀(清光銘)一腰   一、セコンド一ツ  一、がま口一ツ(金五、六十両入)
一、紺木綿縮単衣一枚   一、蒲色風呂敷一枚

 斬られた世良の首は、すぐに白石の本営へと送られました。
 しかし、首を受け取った白石の仙台藩首脳の反応は、余り芳しいものではありませんでした。
 仙台藩の但木土佐は、世良の首を見るなり、「罪人の首級など見たくもない。子捨川にでも投げ捨てろ」と発言し、また仙台藩の開明派として知られていた玉虫左太夫(たまむしさだゆう)でさえも、「その首を俺に貸してくれ。小便をかけてやる」と発言したと伝えられています。
 玉虫は、万延元(1860)年には幕府の使節と共にアメリカに渡ったこともある新知識人でしたが、以前世良に面と向って嘲弄されたことがあったので、世良に対して凄まじいほどの憎しみを持っていたのです。
 また、かねてから世良に対しては同情的な考えを持っていた仙台藩士・真田喜平太は、

「かねてより かくとは知れど今更に 驚かれぬる風の音かな」

 という歌を詠みました。
 世良に同情していた真田でさえも、「かねてより分かってはいたが」と詠んでいるところから見ても、当時の仙台藩内における世良憎悪の感情は、非常に凄まじいものがあったのではないでしょうか。
 また、世良の首を見るなり、「白石の子捨川に首を投げ捨てろ」と発言した但木土佐については、藤原相之助の『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末−』に非常に的を得たことが書かれています。
 少し抜粋しますと次の部分です。


「一体但木の考えでは、世良を討取るにしても、それは会津藩の仕事たるべく、仙台藩は、ただそれに便宜を与えただけのこと、ただし討洩らしてはならぬから、こちらでも十分手配はするけれども、その手配の分はいずれも脱藩の者どもということにして、それを前もって届けているので、どちらにしても藩の責任でないことに仕組んである。しかるに瀬上主膳が、福島藩にも手伝わせて、世良を公然捕縛、訊問の上、斬殺したというのだから、会津のすべき仕事をこちらで全部背負い込んで、名実ともその責に任ぜねばならぬことになった。但木のはなはだ不機嫌だったのは、そのためであった」
(藤原相之助著『奥羽戊辰戦争と仙台藩 −世良修蔵事件顛末−』より抜粋)



 但木は世良暗殺に承認はしていたものの、仙台藩が「火中に栗をひろう」必要はないと考えていたと思われます。『仙臺戊辰史』には、但木が会津藩に白河城を攻撃させ、世良を討ち取らせようと考えていた計画があったことが書かれてあります。
 ただ、このような但木の考え方は、彼固有のものと言うわけでは決してありません。他の仙台藩士も似たり寄ったりの考えを持つ者が多数居たのです。

 これまで何度も書いてきましたが、奥羽諸藩の関係は「仲良しこよし」のような友好関係にあったわけではなく、裏を返せば、このように非常にシビアなものであり、「会津藩嘆願運動」というものは、会津藩を守ろうとしたことだけから生じたものではなく、元々は奥羽諸藩各自の自衛のための策であったと考えるのが妥当な判断だと思います。


(9)に続く




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