「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(9)世良暗殺その後 −結びとして−
 世良修蔵が福島で処刑された三日後の慶応4(1868)年閏4月23日、奥羽地方の25藩が白石において「白石盟約書」に調印し、そして5月3日には、「奥羽列藩盟約書(仙台盟約書)」が調印され、ここにいわゆる「奥羽列藩同盟」が結成されることになります。
 世良が暗殺されてからこれだけ短期間の内に「奥羽列藩同盟」が結ばれたことからも、当時の奥羽諸藩の間で、世良暗殺を契機にして、一気に「反薩長、反新政府」というものが熱を帯び、そして緊張感が高まったことがうかがい知れるのではないでしょうか。
 また、世良の暗殺により、奥羽諸藩は腹をくくらざるを得なくなったとも言えます。

 しかしながら、その後の「奥羽列藩同盟」は瓦解の一途を辿ることになります……。
 奥羽の要であった白河城が新政府軍の手に落ちると、奥羽列藩同盟に加盟していたはずの奥羽諸藩は、次々に同盟を離脱していきます。米沢藩にいたっては、会津藩が籠城戦を繰り広げている最中の8月28日に早々と降伏し、また、奥羽列藩同盟の盟主的な存在であった仙台藩さえも、9月15日に新政府に対して降伏しました。
 そして、会津藩もまた一ヶ月にも及ぶ籠城戦の末、9月22日に開城・降伏に至ったのです……。

 これまで非常に簡単ではありますが、世良修蔵自身のことから筆を起こして、奥羽列藩同盟の性格、仙台藩の会津嘆願運動など、世良が暗殺されるに至るまでの経緯と世良の暗殺について書いてきました。
 ここで少しまとめのような総論を書きたいと思います。
 これまで書いてきたとおり、世良修蔵という人物は、巷でよく言われるような小才な人物ではなく、非常に才能のある将来有望な人物であったことは間違いないでしょう。
 しかしながら、東北における世良の言動をつぶさに調べると、やはり彼には、奥羽諸藩と互角に渡りあえるだけの資質を持ち合わせていなかったという評価が妥当であると言えるかもしれません。
 いや、才能は十二分にあったが、奥羽鎮撫総督府下参謀として、奥羽諸藩と折衝する役目に適任ではなかったというのが的を得た表現かもしれません。

 奥羽鎮撫総督府は極少数の兵力しか持たない、言わば基礎がしっかりしていない上で形成された軟弱な組織でしたので、本来は仙台藩を始めとする奥羽諸藩と融和しながら事を進めなければならなかったと私は思います。
 しかしながら、世良は自らの弱点、つまり奥羽鎮撫総督府の弱みを見せないがために、殊更に大きな態度で奥羽諸藩の重役連中と折衝しました。
 私が考えるに、世良がそのような大きな態度に出たのは、あの強大な勢力を誇った幕府が、「鳥羽伏見の戦い」という、たった一つの戦いで惨敗したことによって、急激に力を失っていく姿を目の当たりにしていたからではないかと思います。
 世良は、幕府が急激に力を失った今、飛ぶ鳥を落とす勢いでどんどん力を付けていく新政府(つまり朝廷)の名の元に命令すれば、それに抵抗するどころか、奥羽諸藩は全てひれ伏すものと考えていたのではないでしょうか。

 しかしながら、奥羽諸藩の態度は違いました……。
 奥羽諸藩は世良の命令をすぐには実行せず、反対に会津藩嘆願運動を展開しました。このことで、世良自身が異常なまでの苛立ちを感じたことは言うまでもありません。
 私が考えるに、京都から遠く離れた場所に位置する奥羽諸藩にとっては、まだ幕府が滅びた実感がわいておらず、新政府の力の具合が実体験的にちゃんと感じ取れていなかったのではないかと思います。そのため、世良の度重なる督促に対しても、そうやすやすとは従い、動かなかったのではないかと思います。

 ただ、このことをもってして、奥羽諸藩に時勢を見る目が無かったと言っているのでは決してありません。これはあくまでも地理的なことが大きな要因になっていると思われるからです。東北地方は京都から遠く離れた場所に位置している以上、どうしても中央の動きや情報を敏感に感じ取れなかったのは無理もないことなのです。
 つまり、世良の考える新政府の力と奥羽諸藩が考える新政府の力との間に大きなズレと温度差があったと言えるのではないでしょうか。
 このような中央と東北との間に温度差が生じていることに気付かずに、官軍の名の元に命令すれば何でも通ると考え、大きな態度に出た世良が、奥羽諸藩の反感を買ったのは当然の結果だったと言えるでしょうし、結果的に言えば、世良は最悪の手段を講じてしまったとも言えましょう。

 最後になりましたが、『仙臺戊辰史』の著者である藤原相之助は、討たれた世良修蔵と、彼を討った仙台藩士のことについて、次のように書いています。


「世良とても長藩の俊秀をもって目せられた一人、品川弥二郎と同列の人物として知られていたほどだから、仙台の若い藩士らが憎み罵ったような欠点短所だらけの人物ではなく、長所も美点もあったであろうが、それを認識するほどの知己を得る機会はなかったのである」
(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩−世良修蔵事件顛末』より抜粋)



 まさに藤原翁の言うとおりではないでしょうか。
 世良修蔵も、そして奥羽諸藩の人々も、お互いの胸襟を開きあって、そして真剣に論議を重ねていたならば、東北の戊辰戦争については、また別の新しい道が開けていたやもしれません。

 これまで長々と書いてきましたが、私自身、正直言ってまだまだ書き足らないことばかりです。
 本来は、新政府、会津藩、仙台藩、米沢藩、その他奥羽諸藩といった全ての立場から見た多角的な視点での「戊辰戦争」と「世良暗殺事件」を描きたかったのですが、私自身まだまだ力不足な上に、そこまで書く時間的な余裕もなく、今回書いたものはそこまでのレベルには至らなかったのが正直なところです。
 これらのことについては、今後の課題として、いつか本格的にこのテーマに取り組んで書いてみたいと思っています。

 非常に長い文章でしたが、ここまで読んで頂いた読者の皆様、本当にありがとうございました。
 この後に続く第2部は、(テーマ随筆)「世良修蔵暗殺の周辺」の現場を私が実際に訪ねた旅エッセイになっています。
 世良修蔵や仙台藩士らのゆかりの地や人物、その足跡を追ったエッセイに仕上げていますので、どうぞこの続きもお楽しみ下さい。


(10)に続く




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