「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)福島城跡
福島城跡(福島県福島市)



(10)福島藩の幕末維新について
 福島は譜代大名である板倉家が治めていた三万石の城下町です。
 元々福島という場所は、米沢を居城としていた上杉家の領土の一部だったのですが、寛文4(1664)年6月、米沢藩の減封により、一時は幕府直轄の天領となりました。
 当時の米沢藩は、第3代藩主・上杉綱勝が急逝したことにより、お家断絶の危機を迎えていたのですが、当時の会津藩主・保科正之の尽力などで、何とかお家断絶だけは免れ、三十万石あった領土を十五万石に減封されたのです。
 福島は、その時米沢藩から削封された領土の中に含まれていました。
 ちなみに、この時急逝した綱勝の跡を継いで米沢藩主に就任したのが、あの「赤穂浪士」で有名な吉良義央(上野介)の子供である綱憲です。

 一説によると、米沢藩はこのお家断絶の危機に瀕した際の会津藩主・保科正之の周旋・尽力を恩に感じていたことから、後に会津藩の嘆願運動に尽力する素地になったとも伝えられています。
 米沢藩が会津藩の嘆願運動を行なった理由には、こういった義理的なものだけではなく、他にもたくさんの理由があったと思いますが、こういった経緯があったことは、米沢藩が会津藩を心情的に同情する要因の一つにはなったと考えられます。
 このように、米沢藩の減封により、福島は幕府の直轄領となったわけですが、福島はその後、本多家や堀田家が治めるなど様々に領主が変わり、最終的には元禄15(1702)年12月、信濃坂木より移封されてきた譜代大名の板倉家が入り、そしてそのまま板倉家の治世で動乱の幕末期を迎えることになります。

 幕末当時、福島藩に限らず、京都から遠く離れていた場所に位置する東北地方の諸藩は、地理的な要因からも、中央政局の詳細な状況や情報が届きにくく、どうしても西国の諸藩より、その行動が鈍くならざるを得ない状況下に置かれていたことは確かであると思います。
 本文中でも少し触れましたが、東北地方で戊辰戦争が激化せざるを得なくなったのは、世良修蔵の手段自体に問題があったこともさることながら、中央と東北との間に、明治新政府に対する認識についての大きなズレと温度差があったことも、大きな要因の一つではなかったかと私は思っています。

 『福島市史 近世編U』によると、京都において幕府軍と薩長連合軍との間で大きな戦争(鳥羽伏見の戦い)が起こったことを福島藩が知ったのは、慶応4(1868)年1月9日の朝になってのことであり、また、それも福島藩江戸藩邸からの公的な知らせではなく、飛脚問屋であった「京屋」及び「島屋」の飛脚便からの情報であったということです。
 つまり、紙に書かれた情報でさえもこれだけ遅れて届くわけですから、中央の明治新政府の現状や勢力、また当時の中央政局の事細かな情勢などについては、なおさら東北地方の諸藩には、それらが実感しにくいものであったことは想像に難くありません。

 例えば、「世良修蔵暗殺事件」についてのみ言うならば、仙台藩士らが世良を暗殺した際に口々に主張したのは、「世良の主張は新政府の方針ではない」ということです。
 つまり、世良のやり方や方針は、彼の独断と偏見をもって行なわれていることであって、実際にそれらは新政府の方針ではないと仙台藩士らは主張し、これを一種の大義名分にして世良の暗殺は実行に移されたのです。
 しかしながら、確かに世良のやり方は、彼独自のスタンスを元に行なわれた強行的な手段ではありましたが、その根本となる方針については、それはむしろ世良の独断というものではなく、新政府そのものの方針であったのです。その方針とは、一番最初の稿でも書きましたが、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力をもって当たらせる」というものです。

 江戸城が開城された後には、形勢は完全に新政府側有利となり、兵力にもかなりの余裕が出来たため、最終的には、新政府軍が西国諸藩の兵力を中心にして東北に攻め上る形となりましたが、奥羽鎮撫総督府が形成された当時は、新政府にはそのような余裕はまったく無かったと言って良いでしょう。
 これは一番最初の稿で大久保一蔵の書簡を例にとって説明しましたが、大久保自身が仙台藩が新政府側に付くことをあれだけ喜んだのは、当時の新政府の力では、東北攻めを行なう余力が無かったためなのです。そのため、時の新政府は世良に対して、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては、奥羽諸藩の兵力をもって当たらせる」という方針を与えて、非常に少ない兵力で東北に派遣したのです。
 こういった経緯や方針があったことについては、奥羽諸藩には認識不足が少なからずあったのではないかと思いますし、また、新政府軍が日増しに勢力を増している現状も、中央から遠く離れた東北地方では、それらを実際に肌で感じることが出来にくかったとも思います。

 このように、中央と東北との間には、明治新政府に対する認識について、大きなズレや温度差が生じており、そのことが戊辰戦争勃発を考える上では欠かせない要因の一つになっているのではないかと私は考えています。
 ただ、これも本文中に書きましたが、このことは東北地方の各藩が情報に疎く、そして時勢を見る目が無かったという風に単純に断定出来るものでは決してありません。これらのことは、あくまでも地理的な要因が非常に大きな原因となっていると思います。

 少し話がそれましたが、福島藩の話に戻しますと、幕末当時の福島藩主は第11代の板倉勝尚(いたくらかつなお)という人物でしたが、当時の福島藩内は藩論が一定せず、幕府側につくか、それとも新政府側につくかで意見が大きく分かれていたため、その対応も決定的に遅れざるを得なくなりました。
 また、三万石の小藩である福島藩としては、隣接する大藩の仙台藩がどう動くのかも見極めなければならず、当時は非常に難しい選択を迫られていたとも言えるでしょう。
 本文中にも書きましたが、世良から密使を立てることを依頼された福島藩士が、仙台藩にそのことを相談したことを見ても、当時の福島藩としては、東北の盟主的な存在である仙台藩の意向を無視することは出来なかったのだと思います。

 鳥羽伏見の戦いの報告を受けて、福島藩内で論争が繰り広げられた結果、藩内の勤王派が藩論を大きく占めたため、福島藩では藩主・板倉勝尚が直々に朝廷に挨拶をするために京都に出向くことになったのですが、その時点でもう既に3月を過ぎており、新政府軍が続々と江戸に向けて進撃中であったため、藩主勝尚の京都行きは事実上不可能となってしまいました。
 このように、遠く離れた京都の様子が分かりにくい場所に位置していた福島藩は、その対応も大きく遅れを取らざるを得なくなったのです。

 ただ、それでも当時の福島藩の藩論は、新政府側に付くことに大きく傾いていたようです。
 『福島市史 近世編U』によると、福島藩の江戸藩邸留守居役を務めていた馬渕清助は、藩内で幕府側に付くことを主張していたため、

「公務ニ関スル大切ノ役義ナカラ、方今ノ時勢モ顧ミス、独リ佐幕論ヲ主張スルハ不忠ノ極リ」

 という理由で、江戸から福島に召還された後、「役義召放ちの上、揚り屋入り」の処罰を受けています。
 こういった状況から考え合わせると、戊辰戦争当時の福島藩は、心情的には奥羽諸藩に同情を持ちながらも、実際は新政府側に付きたいという気持ちが強かったのではないかと思います。
 このような福島藩の気持ちは、他の奥羽諸藩に通じるものがあると私は感じられてなりません。「奥羽列藩同盟」に加盟しながらも、結局は新政府側に付いた諸藩は、この福島藩と同じような気持ちでいたのではないでしょうか。

 しかしながら、前述したとおり、福島藩には奥羽諸藩の盟主的な存在である大藩の仙台藩が隣接していたため、独自でその行動を起こすことも出来なかったことは想像に難くありません。仙台藩が会津藩の嘆願運動を熱心に行なう中、独りだけ抜け駆けをするかのように、新政府側に付くということは、小藩の福島藩としては当然出来なかったでしょう。
 そんな揺れる福島藩が、後に「世良修蔵暗殺事件」の一端を担わざるを得なくなり、また、その暗殺も福島城下で行なわれることになったことについては、福島藩にとっては迷惑以外の何物でも無かったのではないでしょうか。
 これらのことは、三万石という小藩ゆえの一つの悲劇と言えるかもしれません。


(11)に続く




次へ
(11)「金沢屋」、「客自軒」のこと



戻る
(9)世良暗殺その後−結びとして−



「テーマ」随筆トップへ戻る