「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)紅葉山公園
福島城二の丸庭園跡<現紅葉山公園>(福島県福島市)



(11)「金沢屋」、「客自軒」のこと
 前回の(10)で書いたように、慶応4(1868)年当時の福島藩の立場は、非常に微妙なものにならざるを得なくなったのですが、その頃、京都では奥羽鎮撫総督府が形成され、慶応4(1868)年3月19日、九条総督を筆頭にした奥羽鎮撫総督府の一行が、仙台藩領東名浜(現在の宮城県桃生郡鳴瀬町東名浜)に上陸し、仙台藩の藩校「養賢堂」にその本営を置きました。
 そして、慶応4(1868)年3月23日、奥羽鎮撫総督府は福島藩に対して、

「今度会津征討応援被仰付候間、精々可有之候。其藩通行之節、城内本陣タルヘキ事」
(この度、会津征討の応援を仰せ付けるので、一生懸命つとめ励むこと。また、貴藩を通行する際には、城内に本陣を置くことになることを通達する)


 という命令を出し、いよいよ福島藩領内にも緊張がみなぎってきたのです。

 『福島市史 近世編U』によると、福島藩では奥羽鎮撫総督府の下向に備えて、殿中の畳替えを行ない、大手門外には下馬札を立てて、器物は全て瀬戸物を用いるなどの気を使ったそうです。
 また、4月10日頃からは、会津藩討伐を命ぜられた仙台藩兵が続々と福島城下に入り、城下の寺院やその他の旅籠等に宿泊しました。福島藩は、会津攻めのための前哨基地のような役割を担わされたのです。
 仙台藩の会津征討軍の先鋒隊として派遣され、後に世良襲撃の指揮官ともなった瀬上主膳もまた、この時に福島城下に入っています。おそらく、この時に瀬上は「客自軒」に入り、その後ここを定宿としたのでしょう。

 ここで、その瀬上の定宿となり、世良暗殺事件にも深く関与した建物である「客自軒」について書いていきたいと思います。
 客自軒は、福島城下北南町にあった「鰻料理」を看板にする料亭であったと伝えられています。
 文政10(1827)年に発行された『諸国道中商人鑑』には、「大蒲焼」を表看板とする料理屋が福島城下の北南町にあり、その経営者が小立花屋喜兵衛(小橘屋喜兵衛)なる人物であったことが図入りで紹介されています。
 平成5年3月に福島市教育委員会がまとめた『旧紅葉館(元客自軒)調査報告および元客自軒遺構保存工事報告書』所載の大村三良氏が執筆した「客自軒のあゆみ」によると、この小立花屋喜兵衛なる人物は、元は井上姓を名乗る丹波篠山藩の武士であり、ある年江戸詰の折に上野山の火事場で同僚を切って逃亡し、その後、浅草で鰻料理を修得したということです。
 浅草で鰻料理の修行をした井上喜兵衛が、どのような経緯で福島城下で鰻料理屋を営業することに至ったのかは不明ですが、『板倉家御歴代略記第弐』(福島市史資料叢書第24輯)の「勝俊公御行状御逸事之記」という史料には、文政年間当時の福島藩主・板倉勝俊の学問上の師であった杉浦西涯が、城下で鰻料理屋を営んでいた小立花屋喜兵衛に対し、「客自軒」という扁額を与えたことが書かれています。
 これらの事実から判断すると、文政10(1827)年に発行された『諸国道中商人鑑』に描かれている「鰻料理屋の小立花屋」は、瀬上が定宿として世良暗殺の密議が行なわれた「客自軒」の前身であったことは間違いありません。
 また、本文中にも書きましたが、『浅草宇一郎伝』の作者である庄司重男氏は、

「客自軒の女将は、仙台領大河原生まれの浅草宇一郎の女房クラの娘で、宇一郎はその後見をしていた」

 と書かれています。
 先程紹介した大村三良氏の「客自軒のあゆみ」によると、井上喜兵衛とその妻のかねは、金沢屋の世良を襲撃することに手を貸した目明しの浅草宇一郎と養子縁組みをしています。
 つまり、庄司重男氏が言う浅草宇一郎の娘とは、井上喜兵衛の妻かねのことを指しており、娘というのは養女であったことが分かります。
 また、『福島市史 近代編T』には、浅草宇一郎は井上康五郎という人物を養子にしていたことが書かれていますが、この井上康五郎なる人物は、先程書いた「大蒲焼」を表看板にした料亭の経営者である井上喜兵衛と妻かねの養子にあたる人物で、井上喜兵衛の死後、客自軒の経営者となっています。

 少し話が複雑になったのでここでまとめると、浅草宇一郎は「客自軒」の経営者であった井上夫妻と養子縁組みし、その後見をしていました。その井上夫妻には子供がいなかったため、井上康五郎を養子としていましたが、井上喜兵衛が亡くなると、井上康五郎は客自軒の経営を引き継ぎ、また、浅草宇一郎とも養子縁組みをしたということになるでしょう。
 これらのことから判断すると、「客自軒」は井上喜兵衛なる者が営業していた「鰻料理」を出す料亭であったこと、また、客自軒と浅草宇一郎が非常に強い繋がりを持っていたことは間違いない事実だと思われます。
 本文中にも書きましたが、目明しであった浅草宇一郎が、世良襲撃に余り乗り気ではないながらも、そのことに手を貸すことになったのは、こういった事情も大きく影響しているものと思われます。

 さて、話を進めます。
 『仙臺戊辰史』によると、仙台藩兵らが続々と福島城下に集結する中、4月16日には世良修蔵が公卿の醍醐参謀と共に福島城下に入り、城下北南町の斎藤浅之助が営む旅籠「金沢屋」に投宿しています。
(付記:世良が福島に入った日付については、史料によって、15日から17日の間で違いがあるのですが、ここでは一応『仙臺戊辰史』に寄ることにします)
 この世良が定宿とした「金沢屋」については、山口県柳井市立図書館長を務められて、世良の伝記である『世良修蔵』を著わした谷林博氏は、次のように書かれています。


「これによると福島藩では、鎮撫使の入国とあって、家老をはじめ家臣たちが国境にまで迎えにでている。宿舎として金沢屋が指定された。ところが、小説、演劇などによると、妓楼として登場くる。福島藩が鎮撫使の宿として提供したのであって、そんないかがわしい旅館ではなかった」
(谷林博『世良修蔵』より抜粋)



 『仙臺戊辰史』によると、「世良が金沢屋に入ったのは、元々ここに仙台藩の若老軍事局が置かれていたためである」(注:若老軍事局とは仙台藩軍事局のことを指す。後に長楽寺へ移転)と書かれており、仙台藩の軍事局が置かれる建物となると、ある程度の格式が高いものとも考えられるため、谷林氏の話も頷ける部分はあります。
 しかし、この後に公家の醍醐参謀が宿陣した本宮の「大内屋(大内屋藤左衛門)」という屋敷は、酒屋と旅館を両方営業し、また妓楼も兼ねていたと言いますから、「鎮撫使のために用意した場所なので、いかがわしい旅館ではなかった」という論法は、一概には通用しないと思います。
 その証拠に、『福島沿革誌』(福島市史資料叢書第3輯)には、次のような記載があります。分かりやすく現代語に直して書き直すと次の通りです。


「古来は北南町裏通りの馬頭観世音馬場において、「馬のセリ市」が行なわれており、非常に賑わいをみせていた。そのため、北南町で営業している旅籠屋の総代を務めていた刀屋(本来の刀屋ではなく屋号)の丹治金兵衛なる者から、飯盛女を抱え入れて営業したいとの願い出があり、それを差し許した。その後、馬のセリ市は衰えていったため、絹機織女に名称を換えて営業したいという願いがあったので、それも願いのままに任せた」


 つまり、この『福島沿革誌』の記述によると、金沢屋があった福島城下北南町では定期的に「馬のセリ市」が行なわれ、非常に賑わっていた場所であったため、そこに目をつけた現代で言うところの旅館組合の組合長である丹治金兵衛なる者が、福島藩に対して、「飯盛女」つまり「遊女」を置きたいと願い出たことが、この付近に旅籠がたくさん出来たことの起こりであるという風に書かれているわけです。
 この「馬のセリ市」は、米沢藩統治時代からの行事であったそうで、『福島沿革誌』の記述を読むと、馬のセリ市が衰退した後は、表向きは「絹機織女」として、各旅籠に遊女を抱えていたことも分かります。

 また、この『福島沿革誌』には、これら遊女を抱えていた旅籠の営業人の氏名が記されているのですが、その中に「斎藤浅之助」という名前が記載されています。
 斎藤浅之助とは、つまり「金沢屋」の主人のことです。
 『福島沿革誌』によると、北南町で旅籠を営業していた件数は17軒にものぼり、そして絹機織女として抱えられていた遊女は総勢で70人ほどであったそうです。
 また、「客自軒」のことを書いた際に紹介した文政10(1827)年に発行された『諸国道中商人鑑』には、斎藤浅之助が営業する旅籠、つまり「金沢屋」の建物の様子が図入りで紹介されていますが、これを見ると、建物の造りは表が格子造りで非常に粋な妓楼的な造りになっていることが窺えます。金沢屋では八人の遊女を抱えていたという話もありますから、金沢屋が遊女を抱えていた旅籠であったと考えるのは間違いありません。江戸時代当時の旅籠と言うものは、多かれ少なかれ遊女を抱えているところが多かったのではないでしょうか。
 ちなみに、前述した醍醐参謀の宿陣となった「大内屋」には、19歳のお駒という女性が居て世良の寵愛を受けたと『仙臺戊辰史』には書かれていますが、その真偽の程は定かではありません。

 そして、ここにもう一つ興味深い話があります。
 谷林博氏の『世良修蔵』には、浅草宇一郎の養子であり、「客自軒」を経営していた井上康五郎は、「金沢屋」の主人であった斎藤浅之助の妹であるシウと恋仲になり、後に子供が出来たという話を、金沢屋・斎藤家の子孫の斉藤友三氏が語られたことが書かれています。
 このことは大村三良氏の「客自軒のあゆみ」の中にも出てくる話なのですが、ただ、この井上康五郎と斎藤シウの恋は、金沢屋の斎藤家では認められなかったそうです。
 金沢屋の斎藤家は、現在は途絶えてしまったということを聞きましたが、家名が存在している頃には、長年世良修蔵の法要を営んでいたそうですから、世良に対しては非常に同情的な立場にいたと言えるでしょう。
 世良が暗殺された当時、まだ21歳の若さであった斎藤浅之助は、世良が暗殺された当日の彼の印象を「いつも冗談ばかりいって、家人にはカラカラした方に見えた」と語り遺していることが谷林博氏の『世良修蔵』の中にも出てきますが、斎藤家にとっては世良の印象は悪いものではなかったものと思われます。

 しかし、そんな世良が暗殺され、またそれに井上康五郎の養父である浅草宇一郎が関係していたので、金沢屋の斎藤家では、そういった感情的なものから、井上家との縁談を認めなかったのではないでしょうか。
 もしかすると、斎藤家にとっては、世良を襲うことに協力した浅草宇一郎の養子である井上康五郎は、生涯合い入れぬ間柄だったのかもしれません。これはあくまでも想像以外の何物でもありませんが、そういう因縁があったことは十分に想像出来るのではないでしょうか。

 このように、「世良修蔵と金沢屋」、「瀬上主膳と客自軒」とは関係を持つことになり、そして「世良修蔵暗殺事件」という一大事件により、この二人の人物と二つの建物は大きな繋がりを持つことになります。
 そして、先程も書きましたが、奇しくもこの「金沢屋」と「客自軒」は、明治後も奇妙な縁で結ばれていたのです。
 こういった建物の歴史などから「世良修蔵暗殺事件」を紐解いていくのも、非常に興味深いものと感じられてなりません。


(12)に続く



次へ
(12)「客自軒」を訪ねて
−「世良修蔵暗殺事件」ゆかりの地を行く@−



戻る
(10)福島藩の幕末維新について



「テーマ」随筆トップへ戻る