「世良修蔵暗殺事件の周辺」
-奥羽鎮撫総督府の結成から世良暗殺まで-


(画像)長楽寺
仙台藩軍事局が置かれた長楽寺(福島県福島市)



(13)「長楽寺」を訪ねて−「世良修蔵暗殺事件」ゆかりの地を行くA−
 「客自軒」を見学し終え、JR福島駅に戻った私は、ここからレンタルの自転車を借りて、福島市内への史跡巡りへと出発しました。
 福島市には「ももりんレンタサイクル」という、身分証明書を提示すれば、午前10時から午後7時までの間、無料で自転車を借りることが出来るレンタルサイクルがあり、福島市内の移動や観光には非常に便利なものとなっています。
 私としては、是非オススメしたい乗り物ですね。

 駅前で自転車を借りた私は、まず仙台藩の軍事局が置かれ、世良修蔵の暗殺の密議も行なわれたと伝えられる「長楽寺」へと向かいました。
 長楽寺は、JR福島駅の東口を出た後、国道3号線を東に向かって真っ直ぐに自転車で10分ほど行った舟場町という場所にあります。

 私が自転車を走らせながら福島の町並みを見て感じたことは、現在の福島市は、往年の板倉三万石の面影を残しているところが非常に少ないということです。城下の中心であった福島城のあった場所には、現在福島県庁が建てられており、城下町の雰囲気を味わうことの出来る場所はほとんど無くなっています。
 これは日本全国の各都市に共通して言えることだと思いますが、最近では昔の建物がどんどん取り壊され、近代的なビルやマンションなどに変容している傾向にあります。
 古い伝統をもつ、昔の建物に関しては、それを保存していくための金銭的な問題が非常に大きく、最近では維持できなくなった建物を取り壊すなどして、年々古い建物が町から姿を消しつつあります。
 私が思うに、やはりこういった伝統のある古い建物に関しては、国なり地方公共団体などの公的な機関が、修復費や維持費などを建物の持ち主に援助し、それを積極的に保存していく必要性があると感じられてなりません。
 やはり、個人の力では、古い建物を維持していくのは限界があると思います。
 また、何よりも、一旦取り壊されてしまった建物はもう二度と元の姿には戻りません。歴史深い建物を壊すことは、その背景にある歴史をも捨てることにも繋がるということをもっと認識しなければならないと思います。
 無駄な箱モノなどに税金を投入しつつある昨今、こういった文化財保護にこそ、惜しみなくお金をかけるべきではないでしょうか。
 世界から「日本は歴史・文化後進国である」と笑われないようにするためにも、文化財の保護については、特にお金をかけて行なうべきものだと感じられてなりません。

 少し話がそれましたが、福島の城下町が往時の姿をまったく失ってしまったのは、もう一つの大きな理由があります。
 それは、明治14年に起こった「福島大火」です。
 福島大火は、「みどり湯」という銭湯を経営していた二階堂甚兵衛の屋敷が出火元であったため、通称「甚兵衛火事」と呼ばれ、1785戸の家屋が焼失するという、福島城下に壊滅的な被害を出した大火災となりました。
 このような大火災が城下に起こったことも、現在の福島市内に往年を偲べるような建物が少なくなっていることに関係していると思います。

 閑話休題。
 自転車で走ること10分程度、私はようやく舟場町にある「長楽寺」へと到着しました。
 長楽寺の大きな山門をくぐると、そのすぐ右手に「浅草宇一郎夫妻の墓」が建てられています。
 これまで何度も登場しましたが、浅草宇一郎という人物は、世良襲撃のために自らの手下を提供しており、世良修蔵暗殺事件を語るためには欠かせない人物の一人です。

 谷林博氏の『世良修蔵』によると、金沢屋の子孫である斎藤家には、世良修蔵主従の位牌が納められている仏壇があり、その同じ仏壇の中に浅草宇一郎の位牌も納められていたそうです。
 前述したとおり、浅草宇一郎の養子となっていた客自軒の経営者である井上康五郎と金沢屋の当主であった斎藤浅之助の妹・シウは恋仲となり、二人の間には子供まで出来ていたのですが、斎藤家では二人の恋愛を認めませんでした。その後、不運にも井上家の血筋が絶えることになり、その時から斎藤家が浅草宇一郎の供養をすることになったということです。
 浅草宇一郎はその生前、世良の菩提を弔うべく、慶応4(1868)年6月に桑折の無能寺に永代供養料として金三両を寄付していることが、庄司重男氏の『浅草宇一郎伝』の中に出てきます。これは浅草自身が書いた「世良修蔵殿遭難及弔祭理由書」という文書の中に出てくる話なのですが、これを読むと、明治に入ってからの浅草は、世良暗殺に加担したことを自らかなり悔いていたような気がします。
 浅草は慶応4(1868)年6月の他にも、明治2(1869)年5月に三百匹、同3年5月に五百匹、同7年5月二百匹と、計四度にわたって世良の菩提を弔うべく弔祭料を納めています。
 これらのことから考えると、後年の浅草自身は世良暗殺に加担したことを悔い、世良の菩提を永く慰めたいと考えていたのではないかと思われてなりません。
 また、『福島市史 近代編T』によると、後年の浅草宇一郎は、明治初年に福島市内で結成された消防組の中心人物として活躍したそうです。元来目明しであり、侠客でもあった浅草にとっては、「火消し」の仕事は自らの性に合っていたのかもしれません。

 さて、長楽寺の「浅草宇一郎夫妻の墓」の隣りには、戊辰戦争に関連する「仙台藩烏天狗組之碑」という一つの碑が建てられています。
 「からす組」と言えば、小説や芝居、映画などの題材としても数多く取り上げられているので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
 からす組は正式名称を「衝撃隊」と言い、仙台藩士・細谷十太夫(ほそやじゅうだゆう)によって結成された義勇軍です。
 衝撃隊の隊旗には「一羽の烏(からす)」が染めぬかれ、また、その隊士の装束も黒一色という異様ないでたちであったことから、彼らは通称「からす組」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 また、実際に隊長の細谷はからすを好み、一羽のからすを飼っていたとも伝えられています。

 実は、このからす組と福島城下とは少なからぬ因縁があります。
 『福島市史 近世編U』によると、東北の戊辰戦争における大激戦地区としても名高い「白河口の攻防戦」において、新政府軍に敗れたからす組の残党が各地で強奪を行なった後、福島城下に乱入し放火するという騒ぎを起こしています。
 元来からす組とは、各地の目明しや博徒といった、つまりどちらかと言うと、町のあぶれ者を中心に組織された部隊であったので、こういったことが生じたのでしょう。そのため、福島城下では、町民や村民達が団結して自衛のために立ち上がり、暴徒と化したからす組と戦っています。
 『福島市史 近世編U』には、この戦闘でからす組の四人が討ち取られ、その他の者は福島城下から逃亡したと書かれており、長楽寺に建立されている「仙台藩烏天狗組之碑」は、この時の戦死者の霊を弔ったものなのです。
 城下に放火するなどの乱暴狼藉を働いたからす組の残党の遺骸を手厚く葬っていることからは、福島城下の民衆の厚い温情がうかがい知れるのではないでしょうか。


(画像)浅草宇一郎夫妻墓   
浅草宇一郎夫妻の墓・仙台藩烏天狗組之碑 仙台藩軍事局が置かれた長楽寺本堂


 長楽寺を訪れた私は、「浅草宇一郎夫妻の墓」と「仙台藩烏天狗組之碑」を見終えた後、次に境内の中の本堂へと向かいました。
 本文中にも書きましたが、この場所に仙台藩の軍事局が設置され、仙台藩士や福島藩士達などの奥羽諸藩の藩士達の往来が多数ありました。
 この長楽寺は明治に入って後、一時裁判所として利用されていたことがあったそうです。長楽寺の本堂の鴨居の一部には、菊と桐の紋章が刻まれている箇所がありますが、これは長楽寺が裁判所として使われていたことを証明する唯一の遺構で、現在でも外からその紋章をはっきりと見ることが出来ます。
 また、私はこの長楽寺内に「浅草宇一郎の肖像画」があるとの情報を得ていたので、その見学を申し出たのですが、あいにくその日は長楽寺で行事が入っており、また住職も不在と言うことで、その願いを果たすことが出来ませんでした。
(後記:平成15年11月28日、再び福島市を訪れた私は、果たせなかった「浅草宇一郎の肖像画」を見ることが出来ました)

 これまで書いてきたように、長楽寺は戊辰戦争や世良暗殺事件に非常にゆかりの深い建物なのですが、明治に入ってからも、この長楽寺はとても重要な歴史の舞台として登場してきます。実はこの長楽寺も客自軒と同じく、福島県の自由民権運動の歴史の中にその名が登場してくる非常にゆかりの深い建物なのです。
 明治15(1882)年3月31日、この長楽寺において「長楽寺政談演説会」と呼ばれる演説会が開催され、300人もの聴衆が集まったことが『福島市史 近代編T』の中に出てきます。
 また、その後も長楽寺は、福島城下で行なわれた「政談演説会」の会場として度々使用され、福島県の自由民権運動史上にその名を残しているのです。
 ちなみに、福島市内には「尾上座」と呼ばれる劇場があり、この劇場も長楽寺と同様に、政談演説会の会場として頻繁に使われていたのですが、この尾上座を経営していた人物は、客自軒を経営していた井上康五郎であったのです。
 井上康五郎が経営していた「尾上座」が、自由民権運動の際の政談演説会の会場として使用されたのは、おそらく「紅葉館」の名付け親であった河野広中の影響ではないでしょうか。

 このように、世良修蔵暗殺事件にゆかりのある、「金沢屋」、「客自軒」、そして「長楽寺」、それぞれが奇妙な一つの縁で繋がっていることは、非常に興味深い点であると思います。


(14)に続く




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