「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(3)「会津藩の天覧の馬揃え」と「真木和泉の大和行幸計画」について
 前回では「なぜ薩摩藩が提携の相手として会津藩を選んだのか?」と会津藩と薩摩藩の提携の契機となったと私が考えている「会津藩の天覧の馬揃え」のことについても簡単に触れました。
 今回からはその「会津藩の天覧の馬揃え」がいかにして行なわれることになったのかについて、歴史的な背景を含めて具体的に書いていきたいと思います。

 まず、歴史作家・司馬遼太郎氏は会津藩を題材にした著作『王城の護衛者』の中で、この「会津藩の馬揃え」について、次のように書かれています。


この帝にゆるされたわずかな発言範囲のなかで、
「わしに望みがある」
と、廷臣に謀った。
「音にきく会津藩の練兵をみたい」
というのである。
(司馬遼太郎『王城の護衛者』より抜粋)



 司馬氏の『王城の護衛者』の中では、このように孝明天皇自身が「会津藩の馬揃え」を見たいと言い出した風に描かれていますが、実はこれは司馬氏の創作です。実際は因州鳥取藩主・松平(池田)慶徳の建議がきっかけとなって、会津藩の馬揃えが行われることになったのです。
 その辺りの事情については、旧会津藩士・北原雅長の書いた『七年史』に次のように書かれています。
 ちなみに、この北原という人物は、「鳥羽・伏見の戦い」の責任を負わされて切腹した会津藩士・神保修理の弟にあたる人物です。


「二十四日、朝廷は松平相模守慶徳が言に従われて、伝奏飛鳥井中納言雅典を以て、会藩の馬揃天覧あるべき旨仰出されけり」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(7月)24日、朝廷は松平(池田)相模守慶徳の進言に従われて、伝奏・飛鳥井中納言雅典をもって、会津藩の馬揃えを天覧する旨を仰せ出された」



 また、当時京都守護職の公用局(方)の一員であった会津藩士・広沢富次郎(安任)の記した『鞅掌録』という日誌にも、次のように書かれています。


「二十四日ハ伝奏より我公ヲシテ建春門外ニ於テ馬揃ヲナシ叡覧ニ入レ奉ルヘキヲ命セラル因州侯等ノ建言ニ因テ也」
(日本史籍協会編『会津藩庁記録三』所収・広沢安任『鞅掌録』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(7月)24日、伝奏より我が藩公(容保)に対し、御所の建春門外において、馬揃えを叡覧に入れるようにとの命があった。これは因州候(松平慶徳)らの建言によるものである」



 これらを見れば分かるように、会津藩が行った「天覧の馬揃え」は、因州鳥取藩主・松平慶徳の建議によって実施されることになったのです。
 ちなみに松平慶徳は前水戸藩主・徳川斉昭の五男で、後の第15代将軍・徳川慶喜の兄にあたる人物です。

 さて、この松平慶徳がなぜ会津藩をして「馬揃え」を行なうように建議したのでしょうか?
 この理由を紐解くカギは、当時朝廷を牛耳っていた長州藩や真木和泉が画策した「大和行幸」にあるのではないかと私は考えています。
 先程、北原雅長の『七年史』と広沢安任の『鞅掌録』という、会津藩の幕末史を調べる上での基礎史料を二つ紹介しましたが、もう一つ会津藩を知る上で重要な史料があります。会津藩の家老を務めた山川大蔵、後の山川浩が書き記した『京都守護職始末』というものです。
 この『京都守護職始末』には、松平慶徳が会津藩の馬揃えを建議したいきさつが、簡単ですが次のように書かれています。


「因幡侯らはまた、守護職として会津侯があり、他の諸藩の兵も在京するものが多いから、よろしくその兵士の操練をさせ、親しくこれを観覧して、砲声に馴れ、兵装をつまびらかにし、その後で、御親征の可否を議論されたらよろしかろうと述べた」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 敢えて現代語訳を載せませんでしたが、この文章を理解するためには、文中の「御親征」という言葉、つまり「大和行幸」のことについて説明が必要になってくると思います。
 そのため、まずは当時の政局の重要問題であった「大和行幸」について書いてから、本題の「天覧の馬揃え」に話を戻したいと思います。

 「大和行幸」とは、当時の天皇であった孝明天皇に、攘夷祈願のために大和の国(今の奈良県)に行幸して頂いて、神武天皇陵や春日神社などを参拝させようとする計画であったのですが、しかしながらそれは表向きだけのことでした。
 実際にこの「大和行幸計画」の裏で張り巡らされていたものとは、孝明天皇の大和への行幸を機に、天皇を旗頭に据え、一気に討幕の兵を起こそうとする大胆な謀略が隠されていたのです。
 これは歴史が結果として示していることですが、公卿の中山忠光を首領にし、土佐脱藩浪士の吉村虎太郎らが総裁を務めた「天誅組」は、この大和行幸の先鋒と称して、当時天領であった現在の奈良県五條市の幕府代官所を襲撃しました。
 しかしながら、吉村らが知らぬ内に、京都では会津藩と薩摩藩によるクーデター「八月十八日の政変」が起こり、そのため大和行幸計画は中止となり、朝議が一転して百八十度引っくり返ってしまうことになりました。このことにより、天誅組は完全に孤立し、最終的に奈良県の東吉野村において、悲惨な最後を遂げてしまうことになるのです。

 少し話がそれましたが、この「攘夷親征・大和行幸」の計画を考え出したのが、久留米の真木和泉(まきいずみ)という人物です。
 2002年の3月、私は真木が生まれ育った久留米の地を訪れ、そして真木と縁の深い「水天宮」にも足を運んで、色々と真木の遺品や史料を見てきました。真木は久留米水天宮の神主の子として生まれ育ったのですが、神職の家に生まれた関係から、若い時分京都に出ることなどが多かったため、次第に彼は時局へと目覚めていき、志士として国事運動に携わるようになりました。
 しかしながら、久留米藩自体は非常に保守的な性質を持つ藩ですから、真木のそのような運動を許容するはずがありません。そのため、彼は生涯の内に藩から三度も幽閉されています。
 特に一度目については、約10年間も久留米郊外の水田村という場所に幽閉されました。この10年にも及ぶ長い幽閉生活が真木の学問を更に向上させることになるのですが、その水田村での幽居であった「山梔窩(さんしか)」という建物が、現在、久留米の水天宮の境内に、真木の銅像の横に復元されて建っています。ご興味のある方は、久留米を旅された際には一度足を運んでみて下さい。

 また話がそれましたが、本論に戻して、真木という人物は、非常に早い時期から討幕策を考えていたことでも非常に有名です。
 例えば、記録に残っているだけでも、真木は安政5(1858)年10月に『大夢記』という討幕策を既に草しています。安政5年と言うと、明治維新より10年も前のことですから、真木の討幕策というものはかなり古い時期のものであり、このような古い志士歴から、真木和泉という名前は、当時幕末の志士の間でも非常に有名になっていました。
 そんな真木が文久3(1863)年5月に三度目の幽閉から解かれたのは、当時朝廷を陰で牛耳っていた長州藩の人々が、久留米藩に対して真木を解放するように圧力をかけたからです。
 真木の救出を試みる長州藩士らは、意のままに操れる急進派の公卿達を使い、勅命として、真木の解放と彼を上京させることを久留米藩に対して迫りました。これらは当然真木の門人や同志の人々がそのように仕向けたと言えるでしょう。その結果、真木は幽閉を解かれて久留米から上京することになるのですが、その途中長州領内に立ち寄り、長州藩主の毛利慶親(後の敬親)に謁見して、自らの釈放に力を尽くしてくれたことに対する感謝の意を述べると共に、この時に「攘夷親征」、つまり「大和行幸」の素案になる計画を建白しました。
 明治維新における長州藩と毛利敬親の業績をまとめた『忠正公勤皇事蹟』には、この時の様子が次のように書かれています。


「真木和泉は京都へ上りがけに山口に来まして、忠正公に御目にかかって、御礼を申上げ、且つ当時に処する自分の意見を陳述致しましたが、彼れの意見はどうであるかというと、今長州では天下に率先して攘夷をなされて居るが、到底一藩でなさっては成功が覚束ない、日本全国挙って攘夷をするようにしなければならぬ、就いては恐れながら主上が御親征と云うことになれば、天下の人が靡然として応じ、全国一致するは眼前である、何卒此の際御親征の御建議をなさるるが急務であると云う主意であった、それで忠正公は真木の意見を政府の議に掛けて見らるると、政府員等も真木の意見に賛成したものと見え、政府の議が其れに一決致したから、御親征の議を上る為め家老の益田弾正、根来上総を京都へ御上せになることになりました」
(中原邦平著『忠正公勤皇事蹟』より抜粋)



 かな遣いを改めて読みやすくしたので、現代語訳はしませんでしたが、文中の忠正公とは藩主・毛利慶親のことで、真木が攘夷親征について建言したことが書かれています。
 このように真木の大和行幸計画を聞いた長州藩主・毛利慶親や藩の重役連中は、この計画に感心すること一方ならず、この真木の建白に賛意を示し、そしてその後、長州藩自体がこの「攘夷親征・大和行幸計画」を強力に推進することになるのです。
 真木という人物は、風采や体格も堂々としている上に弁説にも長け、また長年の学問の修業で培った知識と教養を兼ね備え、重厚な雰囲気を醸し出していた人であったらしく、多くの人々を酔わすことが出来るタイプの人物だったようです。
 長州藩主並びに重役連中は、この時この真木の計画に惹きこまれ、そして酔わされたと言っても過言ではないでしょう。後のことですが、長州藩が起こした「蛤御門の変」についても、その計画の中心には真木の存在が出てきます。

 結果論だけで言うと、文久期の長州藩の政治運動の多くは、その陰に必ず真木和泉という人物が存在し、そして彼に踊らされると言えばキツイ表現になりますが、彼に引っ張られるようにして起こったものがほとんどです。「大和行幸計画」や「蛤御門の変」などがその顕著な例ですが、幕末時の長州藩は真木和泉という人物に酔わされて引きづられ、一種振り回されているような感が否めません。
 真木の建てた数々の策は、非常に名目は立派なものが多かったのですが、歴史の結果が示しているとおりり、この大和行幸計画にしても、後の「蛤御門の変」にしても、実行性に乏しいものが多かったのは確かなことです。
 真木和泉という人物は、一言で言うと「策士」、いや「奇策士」といった表現を使った方が良いのかもしれません。その真木に引きづられ、振り回された長州藩は、明治維新の前に数々の大きな危機に直面し、そしてその結果、多くの有為な人材を失うことになります。
 長州藩の国事運動が度々停滞せざるを得なくなったのは、真木和泉という人物にその責任の一端があると言っても過言ではないかもしれません。


(4)に続く




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(4)会津藩と真木和泉の対立



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