「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(4)会津藩と真木和泉の対立
 前回では「攘夷親征・大和行幸」の計画が真木の発案であったことや、それを長州藩が強力に推進していくことになる原因について簡単に書きました。
 会津藩が最初の「天覧の馬揃え」を行った文久3(1863)年7月当時、朝廷ではこの「大和行幸」を実施するか否かについて、朝議が大いにもめていました。
 当時の朝廷は、尊皇攘夷を藩の方針として唱える長州藩が、三条実美などの急進派公卿達を利用して、朝議を思うがままに操っているような状態でした。そのため、長州藩の建議した大和行幸は一気に熱を帯びて具体性を持ち、実現へと向かおうとしていた時期でもあったのです。
 真木和泉や当時長州藩の京都方面の代表者的存在であった久坂義助(玄瑞)を中心としたいわゆる尊王攘夷派と呼ばれる人々は、大和行幸を実現させるために、テロや脅迫等あらゆる荒っぽい手段を使いました。そのため、朝廷の公卿達は皆、彼らの過激な行動に震え上がり、表立って大和行幸に反対することも出来ないような状況に陥り、日増しに大和行幸計画は実施される方向へと進んでいったのです。

 朝廷内がこのように一種荒れた状態であったため、当時京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保は、その事態を非常に憂慮していました。
 大和行幸計画の裏には、のっぴきならぬ陰謀、つまり前回にも書いた「討幕策」が隠されていることは会津藩でも察知しており、また何よりも大和への行幸は孝明天皇の本意ではなかったため、会津藩としては大和行幸に賛成出来るわけがなかったのです。
 また、当時大和への行幸に反対していたのは、何も会津藩だけではありません。会津藩の天覧の馬揃えを建議することになる因州鳥取藩や米沢藩など、その他在京していた諸藩のほとんどが、「大和行幸・攘夷親征」には反対の意見を持っていました。
 しかしながら、長州藩が朝議を牛耳ってしまっている以上、会津藩を中心とした大和行幸反対派は、次第に追い詰められていったのです。

 朝議をリードしていた長州藩も、会津藩が大和行幸に反対の意見を持っていたことは、やはり非常に厄介なことでした。
 会津藩は禁裏守護を名目とした京都守護職を務めているわけですし、それに伴って多数の優秀な軍事力も兼ね揃えていました。公卿というものは元来臆病なものであることを長州藩士らも十分に分かっていましたから、もし会津藩が武力を背景に朝廷に圧力をかけるような事態に出れば、それになびく公卿も多数出るかもしれないという懸念が長州藩側にあったからです。この懸念については、この後具体的な事項を示して、詳しく書いてみることにします。
 このように長州藩自体も会津藩の存在を非常に警戒していたわけなのですが、ここで再び真木和泉が登場してきます。
 真木が長州藩の尽力により久留米の幽居を脱出することに成功し、その後長州藩主・毛利慶親に「大和行幸・攘夷親征」のことを建白したことは前回書きました。
 真木は文久3(1863)年6月8日に京都の伏見に入ると、すぐにその足で長州藩邸に赴き、その日から大和行幸計画を熱心に運動し始めました。当然真木にとっても、大和行幸の実現について一番邪魔な存在であったのは、やはり会津藩でありました。そのため、真木は松平容保を京都守護職から解任させようと画策し、朝廷と会津藩を離間させる策を立てたのです。

 文久3(1863)年6月25日、会津藩が「天覧の馬揃え」を行なう約一ヶ月前のことですが、会津藩に対して、朝廷から次のような勅命が下されました。この勅命は『京都守護職始末』や『七年史』に原文が記載されていますが、『京都守護職始末』の文章の方が比較的平易で分かりやすいので、こちらから抜粋します。


「大樹の東下以後、関東の形勢はいかがかと、御不安心におぼしめされ候間、事情を熟察して言上あるべく、かつ攘夷の儀、叡慮の貫徹を周旋いたすべく御沙汰候事」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 この文章のみでは分かりにくいことが含まれているので、少し解説を加えますが、この勅命の趣旨は、

「将軍が江戸に帰って以後、関東の形勢がどうなっているのかと帝(孝明天皇)が不安に思っていらっしゃる。なので、容保が事情を視察するために江戸へ下って朝廷にそれを報告せよ。そして、攘夷の実行を五月十日と約束したにも関わらず、まだ攘夷の実行を行なわない幕府に対し、速やかに叡慮を重んじて攘夷を行なうようにと幕府と折衝せよ」

 というものでした。
 実はこの会津藩に対して下された勅命は、真木和泉が急進派公卿の中心人物であった三条実美を説いて、勅書として出させたものなのです。
 つまり、真木はこのような勅命を出すことによって、容保を江戸に送還して、容保が京都を留守にしている間に、別の人物を守護職に就任させるよう朝廷に対して働きかけ、会津藩と朝廷を離間させようとする腹積もりであったのです。いかにも「奇策士・真木和泉」らしい考え方です。
 このように会津藩への勅命下賜の裏側には、真木という存在がいたことを『京都守護職始末』では次のように書いています。


「そのころ三条実美卿の威権が満朝を圧し、卿のもっとも信頼しているのが真木和泉であって、わが公の東下の策を建てたり、将軍家を譴責する勅書をつくって卿にすすめたのも、みな和泉からでたことである」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 三条実美という人物は、当時は朝廷内でも権力の絶頂にいたと言っても良いかもしれません。
 当時の三条はまだ26歳の若者です。若さゆえにと言ってしまえばそれまでですが、苦労知らずの良家のお坊ちゃまが、尊皇攘夷を唱える長州藩士達や志士達に良いように祭り上げられておだてられ、当時は非常にイイ気になっていたと言えるでしょう。
 幕末という政局が非常に複雑化し、大きな混乱を招いたのは、三条に代表されるような公家達が、政治の実状も分からないままに祭り上げられ、なまじっか権力を持ったからであると言えるのではないでしょうか。

 さて、話を戻して、このような形で真木と三条が京都守護職であった松平容保を江戸へ送還しようと画策したのですが、『七年史』にはこの時の真木と三条の思惑がもっと具体的に記されています。少し長いですが全文を抜粋してみたいと思います。


「三條中納言実美等主となりて、大和行幸、幕府御親征の秘密を結構したりしかども、或は会津藩の阻害せんことを憚りしに、中川宮御内捕縛の朝命を拒みしより、彌安からず。加ふるに交代の兵数多、会津より登るとの聞えありしかば、或は非常手段に出るにやあらんと、中納言実美等の激堂上は、真木和泉と謀りて、関東の御使を命じ、京地を去らしめむとの陰謀より出たるなりけり」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)



 比較的平易な文章なので現代語訳無しでも理解することが出来ると思いますが、この『七年史』の記述によると、三条実美や真木和泉は、会津藩の兵隊の交代時期が近づいて来ていることを非常に憂慮し、もしかすると会津藩がこの兵隊の交代時期を見計らって、その兵力を背景に非常手段、つまりクーデターに出るのではないかということを恐れており、こういった事情から、真木は三条を使って容保を関東へ派遣するように仕向けたということです。
 この会津藩の兵隊交代の時期については、『京都守護職始末』が分かりやすくその事情を記していますので、その部分を抜粋したいと思います。


「わが公の上京以来、旗下の守衛兵(藩ではこれを本隊と言っている)半数のほか、藩制で一陣を在府常備の兵員と決めてあった。一陣の将は、家老がこれに当って、陣将と称んでいるが、一陣は四隊が集まったものである。各隊にはそれぞれ隊長があって、それを番頭とよぶ。毎年八月を交代の時期とし、会津からくる新しい一陣は、八日に京師に着く。国へかえる一陣は、十一日に京師を出発する。」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 この記述によると、会津藩の兵隊の交代時期は、毎年8月8日に新しい兵隊が国元の会津から京都に到着し、そして国元に帰る兵隊は、8月11日に京都を出発することになっていました。
 それでは、当時の会津藩の一陣とは、一体どれくらいの兵数であったのでしょうか?
 会津藩の兵数については、『京都守護職始末』では一陣を1000人、つまり当時京都に居た会津藩の兵隊は、国元からの交代の兵を合わせて2000人と書いています。
 また、後に書くことになると思いますが、会津藩公用局の広沢安任の『鞅掌録』には、「会津藩の現兵数は1800人である」と松平容保が8月18日に行なわれた朝議の場において発言していることが記されています。
 これら両書の記述とも数にはそう大差がありませんので、兵隊交代時期の会津藩の在京勢力は、1800から2000人であったことは間違いないと言えるでしょう。

 このように会津藩の兵隊の交代時期が近づいていたので、真木や三条ら尊皇攘夷派は、会津藩がその兵力を背景にクーデターを起こすのではないか? と憂慮していたわけですが、しかしながら、会津藩はそういった大それた計画を一切持ってはいませんでした。それは会津藩が前述した交代の兵隊を従来通り8月11日に京都を出発させていることを見ても明らかです。会津藩がその国元に戻そうとした兵隊を急遽京都に呼び戻すのは、薩摩藩から提携の申し出があった8月13日以後のことです。
 つまり、薩摩藩から提携の話がなく、「クーデターを一緒に行なわないか?」との申し出がなければ、会津藩としては単独で動く計画は当面無かったという事実をこの兵隊交代の一件は物語っているのではないでしょうか。

 幕末史全体をよく見て考えても、会津藩という藩は、やはり政治が上手な藩とは言えないと思います。
 これには様々な理由があると私は考えていますが、それを書いていると長くなりそうなので今回は省略しますが、ただ一つ言えるのが、会津藩という藩は、愚直なまでにいつも真っ直ぐの正攻法でしか物事を進めないという傾向があります。
 これは会津藩が持っていた独特の教育制度や藩の置かれた環境、そして松平容保の性格の問題等、色々な要因が大きく影響を与えていると思いますが、やはり政治的な感覚が当時少し欠如していたことは否定できない事実ではないかと思います。
 こういった部分からも、会津藩が最終的に政局の主導権争いに敗れてしまう原因が潜んでいると私は考えています。


(5)に続く




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真木和泉の大和行幸計画」について



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