「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(5)会津藩の勅命撤回運動と孝明天皇の秘勅
 前回まで、真木和泉が三条実美と謀り、会津藩主・松平容保に対して、関東へ下向するようにという勅書が出るように画策し、容保及び会津藩を関東へ厄介払いしようとした陰謀の全容を書きました。
 しかしながら、この勅書は会津藩士達の猛反発を買いました。容保に寄せられていた孝明天皇の厚い信任から考えると、この勅書はどう考えても「偽勅」だと会津藩士達には感じられたからです。

 『京都守護職始末』には、はっきりとこの勅書が「偽勅」であったと書いてありますが、この勅書に関して「偽勅」という言葉を使うのは、私は「半分は合っていて、半分は間違っている表現」ではないかと思います。
 この当時、長州藩は庇護している急進派の公卿達を利用して、朝議を牛耳り、「偽勅」というものを頻繁に出したという表現が、あらゆる書籍の中で目に付きますが、この当時出された勅書のほとんどが「偽勅」であるかと言えば、それはそうではなく、これは真に言う「偽勅」ではありません。なぜならば、これらの勅書はちゃんと朝廷内で決裁され、また、最終的に天皇の認可も得ている正式な書類なのです。つまり、書類上や手続き上においては、紛れもない「真勅」であったと言えます。
 例えば、容保に下されたこの関東下向の「勅書」についてですが、『七年史』には次のように書かれています。


「主上の聖明なる、此奏聞の只事ならぬを御推測ありてけれども、其議を却くるに忍び給はずして、御裁可ありしながら」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)



 この『七年史』の記述を見ると、「孝明天皇は、真木と三条が企てた奏聞が、只事ならぬ陰謀を秘めているのは分かっていながらも、その議を却下することが出来ずに裁可した」という風に書かれているわけです。
 つまり、孝明天皇がどう内心で感じていたのかは一先ず置いたとしても、容保に下された勅書は天皇がちゃんとそれを認可しているのですから、手続き上は紛れもない「真勅」であったと言えるでしょう。
 ただ、その内容が天皇の意向を無視しているという点で、この当時長州藩が謀った「勅書」のほとんどが「偽勅」と言われているだけなのです。

 では、幕末当時、なぜこのような乱れきった形の勅書が乱発出来るようになってしまったのでしょうか?
 これはやはり朝廷内の「学習院」というものの機能が大きく変化したことが、その大きな原因の一つであったと私は考えています。
 少し簡単に書きますが、元々「学習院」というものは、公家の子弟の教育機関として、弘化年間に設立された存在であったのですが、幕末という時期には、過激な論を唱える公卿達の一種の「溜まり場」のような場所と化しました。長州藩を始めとする京都に出入りしていた諸藩は、その学習院の機能の変化に目を付け、弁口豊かで才能ある人物を学習院出仕や掛付けにして、彼ら公卿の後押しをしたため、本来は教育機関であったはずの学習院が朝廷内で政治的に非常に力を持つことになったのです。
 勅書が乱発されたのは、諸藩士や志士達がその学習院に押しかけ、公卿達を良い気に祭り上げて、そこから朝議を操ろうとしたことが大きな原因になっていると私は考えています。

 さて、話を戻して、容保に対し関東に下向するように命じた勅書が6月25日に下されると、容保は6月27日付けで朝廷に対して上書を提出しました。
 その上書については、ここでは詳しく抜粋しませんが、容保の上書の内容は、簡単に言うと、関東へ下向する命令を取り消して頂きたいというものです。
 また、容保はそれと同時に、公用局の野村左兵衛や大野英馬、広沢富次郎(安任)、秋月悌次郎といった人々を使って、堂上方(公卿)を説かせ、関東への下向命令を撤回してもらうように運動しました。
 その運動が功を奏したのか、当初容保に関東に下向するようにという勅書を認可したはずの孝明天皇自身が、飛鳥井中納言雅典ら伝奏に対して、次のような秘密の勅書を下しました。この秘勅は『京都守護職始末』や『七年史』の両方に記載されていますが、『京都守護職始末』が分かりやすく大意を記していますので、それを抜粋したいと思います。


「元来容保を東下せしめることは、もともと朕の望むところではないが、いかんせん、朕はこれを支えることができない、やむなく東下の命を下したけれども、これは朕の真意でないことであり、容保がもし辞退するならば、朕がもっとも悦ぶ事なのであるから、再命しないことをあらかじめ汝らに知らせておく、今後、もし再命の勅の出ることがあっても、これは朕の真意ではないことであるから、汝ら、この書面の写しをつくって容保に示し、朕の真意を知らせるように」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 これによると、「当初出した勅命は自分の意志ではないから、容保が関東行きを辞退してくれた方が良い。また、もし再び同じような勅命が下ったとしても、それは自分の真意ではないということを容保に伝えて欲しい」という内容の秘密の勅命を、孝明天皇は飛鳥井伝奏に渡し、容保に知らせるようにと指示したというわけです。
 しかし、これを読んでいると、「勅命と言うものは、そんなに軽いものであったのか?」と、勅命自体の軽重に大きな疑問が生じます。前述しましたが、容保に東下を命令した勅命は、正式に孝明天皇の裁可があったのですが、それが出された直後に「あの勅命は真意ではない」とすぐにそれを取り消すような内容の勅命をいとも簡単に出す辺りがそうです。
 また、「再び東下せよとの勅命は出さないつもりであるが、もし万が一そういう勅命が出た場合があったとしても、それは自分の真意ではない」なんて書いていること自体が、当時の公卿的な軟弱な発想を物語っているのではないでしょうか。
 つまり、ここにも一つの言い逃れの種を作っているわけで、これは一種の責任転嫁なのです。
 当時の公卿の手紙や発言を調べてみると、こういった遠まわしの表現や言い逃れの表現がやたらに多いのが目に付きますし、そのことで自らの責任を他に転嫁し、回避しようとするものが数多く見られます。
 このように、状況によってすぐに態度をコロコロと変えるのが、公家流のやり方であり、また、幕末の政治を混乱させた原因の一つでもあるのです。
 幕末という時代が結果的に非常に混乱した原因の一つは、このように「朝令暮改」、つまり朝廷の政策が一定せず、急にコロコロと変化する朝廷のだらしなさと言いますか、いい加減さに端を発すると言っても過言ではないでしょう。
 ある時はこっちに付き、またある時はあちらに付く。
 このようにのらりくらりの曖昧な態度を朝廷自体が持っていたため、幕末の政局がこんなにも混乱する大きな原因となったのです。
 極論ですが、公家なんていう人々が、一時的に権威や権力を持ったということが、幕末における一つの不幸だったと言えるかもしれません。結局は幕末の会津藩もまた、そんな朝廷に振りまわされてしまった挙句、最終的には悲劇への運命を辿る原因の一つとなったのではないでしょうか。

 話を戻しますが、孝明天皇が飛鳥井伝奏に秘密の勅書を送り、容保にその意を伝えるようにと指示したところまでは書きました。実際この秘勅は、飛鳥井中納言雅典と野宮宰相定功の両伝奏に下されたのですが、飛鳥井・野宮の両人は、その孝明天皇の勅書を見て非常に驚き、彼らは孝明天皇に対して、ある上書を提出しました。
 この上書については『七年史』に記載がありますので、そこからまず原文を抜粋して、私が後に分かりやすく現代語訳したいと思います。


「聖諭の如く、会津は敢えて聴従仕間敷候、先に議論紛興の折、今日の場合に於て、会津に命ずるは不宜旨も有之候へ共、重大之事件なるが故に、不得止決議御沙汰相成候儀に御座候、今日に至り、御許容なく、彼は偽勅也と、被仰出候へば、今日迄の勅諚、皆偽となり、衆心之を厭ひ、離散を生ずるも難計、臣等不肖にして申上候は、厚顔の至りに候へ共、皇國の御為め、深く憂慮仕候、故に内密に秘勅を会津に下され候儀は、御宥恕之程奉冀候、毎々勅命を拒み、恐懼々々、只管奉歎願候」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「帝のおっしゃられますように、会津は敢えて関東への下向命令を承諾しないとは思います。しかしながら、先に色々と議論が起こった際に、今日のような状況において、会津藩の容保に東下を命じることが宜しくないというご意向もあるとは存じておりましたが、このことは非常に重大な一件ですので、やむを得ないということで容保を関東に下向させようと言う決議に相成ったのです。それを今日に至って「あの勅命は許可した覚えはない、あれは偽の勅命じゃ」と仰せ出されてしまいましては、今日までに出した勅諚も全て偽のものとなってしまい、人心はこれを疑って離反していくこともあるかもしれません。私達は不肖の者で厚顔の至りであるとは存知ながらも、皇国のためであると深く憂慮して、敢えて申し上げさせて頂きました。ですので、内密に会津藩に対して秘密の勅書を下すことに関しては、どうぞお許しして頂きとうございます。帝の勅命を拒むことは恐れ多いことであることは重々承知しておりますが、ただただ、恐れ入りながらこの旨を申し上げさせて頂きます」



 少し現代語訳が長くなってしまいましたが、飛鳥井伝奏らは、

「このように朝令暮改に勅命を変えると、今までの勅命全てが偽勅だと疑われることになるので、そういうことは宜しくありません。ですので、会津への秘勅を下すことについてはどうぞ御勘弁願います」

 と孝明天皇に対して反対意見を述べたというわけです。
 なるほど、飛鳥井らの言っていることは至極当然のことであり、私が前述した勅書というものの見解についても合致するような内容です。
 しかしながら、これは飛鳥井が真剣に「勅命の乱れ」ということを憂慮して、会津へ秘勅を下すことに反対したというわけではないと思います。つまり、会津へ秘密の勅命を持って行くことが恐くて仕方なく、ただその役目が嫌なだけで、正論を持ちだしてその役目から逃げようとしたに過ぎないという面が非常に大きいと思わざるを得ません。
 長州藩を中心とした尊皇攘夷派は、非常に強引なやり方で公卿達を脅迫することも当時は多かったですから、飛鳥井や野宮としては、会津に秘密の勅命を持っていくことで、そういう荒っぽい連中に目を付けられ、自分自身に被害を蒙りたくはなかったのです。
 そのため、「勅命の乱れ」という正当な理由を並び立てて、暗にその役目を断ろうとしたと思われます。この辺りがまたまた公家らしいモノの考え方と言えましょうか……。

 このように孝明天皇は飛鳥井伝奏に秘勅を会津藩に下す役目をやんわりと断られたため、6月29日、今度は近衛忠熙前関白に対して二通の秘勅を下しました。一つは近衛宛、もう一つは容保に宛てたものです。
 この秘勅降下の日についてですが、実は27日説と29日説の二つがあります。
 しかしながら、容保が関東下向の勅命を受けたのが6月25日、その返事をしたためて朝廷に対して上書を提出したのが27日、またその間に、孝明天皇が飛鳥井伝奏らとやり取りをしたり、また、容保が公用局の藩士を使って色々と勅命取り消しの運動を試みていることから考えると、やはり日付け的には29日の方が適しているような気がします。
 おそらく孝明天皇も、容保の上書を見て秘勅へと動いたとも考えられますし、27日では余りに日が切迫し過ぎていると感じられます。
 これはあくまでも私の推測ですが、この解釈でいかがでしょうか?


(6)に続く




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