「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(6)松平容保の決心と真木和泉の秘策
 文久3(1863)年6月29日、会津藩公用局の小野権之丞が近衛邸に参内すると、近衛前関白は次のように発言し、孝明天皇の勅書を授けたということが『七年史』に書かれています。


「昨日関東下向の御沙汰は、真の叡慮にあらず、主上には深く御依頼思召さるるにより、関東下向無用たるべしとて、内勅の宸翰をぞ下されける」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)



 現代語訳するまでもありませんが、「関東に下向せよという先の命令は、真の叡慮ではない」という口上が添えられて、小野は近衛から勅書を受け取り、すぐに会津藩の宿舎となっている京都郊外の黒谷の金戒光明寺へと戻り、容保にその旨を報告し、その勅書を手渡しました。
 孝明天皇が近衛前関白を通じて容保に下した密勅は、『京都守護職始末』や『七年史』に記載がありますが、作家の海音寺潮五郎氏が著作『西郷隆盛』の中で、その密勅を分かりやすく現代語訳したものを書かれていますので、今回はそれを抜粋したいと思います。


「朝廷は、今日その方を召して、関東の事情の検察と、攘夷実行についての大樹の功罪を視察するため、その方を使者として下向するように申しつけたとのことである。幕府の攘夷のことについて尋問するのは一応の理由はあるが、この時局に守護職たるその方を検察使として京を離れさせるのは、朕は好まないのである。しかし、現在の朝廷の役人や公家は、何事も激烈強硬に主張する習いとなっているので、愚昧な朕としてはとても抵抗出来ず、彼等の主張する通りになってしまった。この勅は、大変厳重な沙汰のようであるが、朕の真実の心から出た勅ではない故、その方が諒承するかどうかは心まかせにして返答してよい。朕は決して下向を強いはしない。
朕がこのようなことを言ったと知れば、彼らはまた騒ぎ立てるであろうから、上手にはからってほしい。秘せよ、秘せよ。六月」
(海音寺潮五郎『西郷隆盛』第五巻より抜粋)



 この密勅を授けられた時の容保の感動を『七年史』は、

「今や此内勅を賜はり、感泣手足を惜くの所なし」

 と記し、また広沢の『鞅掌録』では、

「我公ニ依頼シ給ヘル此ノ如ク是厚キヲ知リ竊ニ涕泣セサル者ナク」

 と書いています。
 両書の記述を見ても、孝明天皇から下された勅命を受け取った容保と会津藩士達の感激が、いかに大きなものであったかが分かると思います。
 また、もう一つの近衛前関白に宛てた密勅も、書き出してみることにいたします。同じく海音寺潮五郎氏が現代語訳したものを抜粋したいと思います。


「今会津を東下させるのは、先日も申したように、会津は勇威な藩なので、これが京にいては奸人共の計策がおこなわれがたいので、これを他に転じさせ、事にかこつけて守護職を免じようとの謀略なのである。関白(鷹司)もまたそう疑っている。これが、即ち朕が最も会津を頼みとし、京を離れさせることを欲せざる所なのだ。事ある時にはかの藩を力にしようと思っているのである。今、勅と言う名で偽勅が盛んに行われている。これから先、どのような暴勅が下るかわからない。会津はその真偽を、鋭く鑑識することが望ましい。」
(海音寺潮五郎『西郷隆盛』第五巻より抜粋)



 孝明天皇が下した二つの密勅を読むと、容保らが涙を流して密勅を受けた理由がよく分かります。
 特に、近衛前関白に宛てた密勅の中には、

「朕が最も頼りにしているのは会津藩である」

 と近衛に対して言っているわけですから、当然、その孝明天皇の心は容保にも伝わっていたはずです。この孝明天皇の言葉は、京都守護職を務めている容保にとっては、何よりも代えがたい嬉しいものであったに違いありません。

 少し話がそれますが、会津藩が一時期は政局の主導権を握りながらも、最終的にその形勢をひっくり返されてしまうのは、これだけ厚い信任を得ていた孝明天皇が亡くなってしまったことが、やはり一番の大きな原因だと思います。
 つまり、会津藩にとっての歴史上の大きなターニングポイントの一つは、「孝明天皇の死」であったことは間違いないのではないでしょうか。

 さて、容保はこの密勅を受けて、孝明天皇のために一身を投げ出す覚悟をしました。『七年史』には、容保自身が、

「臣守護の職を奉ずる、誓て京師を以て、墳墓の地と仕らん」

 と語ったことが書かれています。
 つまり、「私は守護職の職を全うして、京都の地をその墓場とすることを誓った」ということです。これを見ても当時の容保が抱いた強い決心がよく分かります。
 結局、このように孝明天皇自身が容保の関東下向を自分の意にそぐわないものであるとしたため、容保の関東下向の勅命は取り消されることになり、禁裏付武家の小栗正寧が江戸に派遣されることになりました。
 これにより、真木和泉の考えた出した「会津藩と朝廷との離間策」は、ものの見事に失敗したと言えるでしょう。

 しかしながら、真木はその失敗にくじけず、今度はとんでもない一つの奇策を謀ろうとしました。真木はまたも三条実美を口説き、勅書を出して、当時薩摩に居た島津久光を上京させるように謀ったのです。
 つまり、真木は一時的に薩摩と長州を提携させて、薩摩藩の力(軍事力)を使って、会津藩を京都から追い落とそうと考えたのです。
 ただ、誤解があるといけないので書きますが、それではこの真木の構想は、後に結ばれる「薩長同盟」の先駆的なものと言えるのか? というと、そうは一概に言えないと思います。当時の薩摩と長州は、非常に険悪な仲になりつつあるところで(結局それは後の「八月十八日の政変」で頂点に達することになるのですが)、長州藩を中心とした尊皇攘夷派にとっては、公武合体派の薩摩藩の評判は、余り芳しいものではありませんでした。
 そのため、尊王攘夷派の志士達は久光が上京してきたら、会津藩や幕府と手を結んで、長州藩を追い出そうとするに違いないと思い込み、彼らは真木が久光召喚を謀ったことに激怒し、真木を詰問しようとまでする動きが出てきたのです。
 おそらく、真木としては、後の薩長同盟のように薩摩と長州を完全に提携させるつもりはなく、とにかく会津藩を京都から追い出したいという一心のみで、薩摩藩をこちら側に引き寄せるべく、久光を召喚しようと謀ったのではないかと思います。

 ここにとても面白い一つの逸話があります。
 これまで書いてきたとおり、尊王攘夷派の志士達にとっては、薩摩藩の評判は余り芳しいものではなかったのですが、ある時、彼らは久光召喚を謀った真木を詰問するため、真木を京都の南禅寺に呼び出しました。その目的について、海音寺潮五郎氏は「真木をつるし上げようとしたためである」と書いています。
 真木が南禅寺に来ると、彼はたくさん詰めかけた志士達の前に座り、従容として一首の和歌を作って志士達に見せました。すると、その和歌を見た尊王攘夷派の志士達は、

「さすが先生、そういう策でござったか」

 と誰もが納得の表情を見せ、真木をそれ以上詰問することは中止になったというのです。
 ただ、残念ながら、この和歌は現代には伝わっていません。一首だけで真木の久光召喚策の真意を説明し、そして激昂する志士達を鎮め納得させることが出来た和歌とは、一体どういうものであったのでしょうか? 非常に興味があると思いませんか?


(7)に続く




次へ
(7)文久年間当時の会津藩と薩摩藩の関係@



戻る
(5)会津藩の勅命撤回運動と孝明天皇の秘勅



「テーマ」随筆トップへ戻る