「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(7)文久年間当時の会津藩と薩摩藩の関係@
 前回までは、「八月十八日の政変」が起こるきっかけとなった「大和行幸・攘夷親征計画」の成立経緯、そしてその背後で画策された尊王攘夷派による「朝廷と会津藩の離間策」、そして最後に、それに伴って下された「孝明天皇の会津藩への秘密の勅書」についてまでを書きました。
 これまで「会津藩の馬揃え」が行なわれる前までの時代背景の概略を一応書きましたので、今度は少し視点を変えて、もう一方の政変の主役となる薩摩藩のことについて、少しだけ時代を追って、簡単に触れてみたいと思います。

 薩摩藩が英明君主と謳われた第28代藩主・島津斉彬の死後、本格的に国事運動へと乗り出して来たのは、斉彬の跡を継いで藩主となった第29代藩主・島津忠義の実父である島津久光が、幕政改革を要求するため、文久2(1862)年3月16日に兵を率いて鹿児島を出発し、京に向かったことに始まります。
 この島津久光の「率兵上京計画」については、本サイト内の「テーマ随筆」で詳しく書いているところですが、久光は京都に入った後、同じ薩摩藩内の有馬新七以下の倒幕を目指す急進派を京都伏見の船宿「寺田屋」において上意討ちにするという処分を行いました。
 これが世に言う「寺田屋事件」というものなのですが、久光はこの事件により、孝明天皇以下朝廷の大きな信任を得ることになり、また天下に対しても、「自分の真の目的は、公武合体にある」ということを世に示しました。

 ここから少し端折って書きますが、久光はその後江戸に下って、幕府に対して幕政改革要求を突き付けることになります。
 この時、久光が要求したことについては、幕府も苦渋の決断を迫られながらも、最終的には久光の要求を飲むことになり、久光の当面の目的は達せられることなったのです。この点においてだけ言えば、久光の上京策は成功したと言えるでしょう。
 しかしながら、文久2(1862)年8月21日、当初の目的を達した久光が意気揚々と江戸を出発し、帰国の途につく途中で不測の事態が起こりました。横浜近郊の神奈川宿の手前の生麦村において、久光の行列を横切ったイギリス人が、行列に同行していた薩摩藩士によって斬られ、死亡する事件が起こったのです。
 これが「生麦事件」と呼ばれるものですが、この事件が後の薩摩藩の国事運動を大きく停滞させ、そして幕末が混乱することになる要因の一つとなるのです。

 文久2(1862)年閏8月7日、久光はようやく江戸から京都に戻ってきたのですが、彼がその時に見た京の現状とは、非常に目を疑うばかりのものでした。
 久光と同じく長州藩士・長井雅楽が提唱した「航海遠略策」に基づく公武合体政策を引っさげて国事運動に乗り出していた長州藩が、その公武合体政策を完全に捨て、最も激烈な尊王攘夷論に藩論を転換していたため、京の都はその攘夷熱で異様なまでの盛り上がりを見せていたのです。
 久光としては、公武合体を周旋するために、わざわざ鹿児島から兵を率いて京都に入り、そして江戸にまで下って、幕府に改革要求を承諾させることに成功したにも関わらず、自分が京を留守にしている間に、長州藩がガラリと百八十度藩論を変え、また、これに土佐藩が追従するような形で尊皇攘夷論を熱烈に唱えたため、久光の不在中の京都の雰囲気が出発前とは一変してしまっていたのです。
 久光としては、今まで自分が苦労して行ってきた公武周旋が、まさに水泡に帰すかのような長州藩や浪人・志士達の行動を見て、苦虫を噛み潰すような腹立たしい思いを抱いたことでしょう。そして、そのことは、久光が京都に戻った翌々日の閏8月9日に、彼が朝廷に対して提出した建白書の内容に色濃く出ています。
 久光が提出した建白書は、『島津久光公実紀』という史料に記載がありますが、原文は漢文体ですので、まずはその一部分を抜粋してから、私が後に現代語訳してみることにします。


「此上者朝議確乎トシテ不被動匹夫之議論一切御採用不被在関東之處置静ニ御観察被遊度御事ト奉存候」
「方今之處ニ而諸藩ヲ御膝元エ被召寄候得者関東之處置御疑之筋ニ相當リ於彼地モ却而気受不宜御一和之所ニ者参兼可申哉ト甚懸念奉存候」
(『島津久光公実紀(第一巻)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「この上は朝議を確固たるものにして動かされることなく、また匹夫の議論は一切ご採用あられず、まずは関東(幕府)の処置を静かにご観察されるようにお願いいたします」
「現在の状況のように、諸藩を京都(朝廷)へお召しになされますと、関東(幕府)の処置を疑うことになり、幕府においても良い気持ちがせず、公武一和に差し支えが出るのではないかと、私は甚だ懸念している次第にございます」



 分かりやすくするために、繋がっている文章を敢えて二つに分けてみましたが、この建白書には、久光の憤懣やるせない気持ちがよく表れています。
 匹夫の議論とは、つまり長州藩士達や浪人・志士達が唱えている過激な「攘夷論」のことを指しており、

「そういう過激な議論に惑わされるようなことなく、まずは幕府がどのような処置をするのかについてご観察下さい」

 と久光は述べています。
 つまり、久光は自分が江戸に行って幕政改革要求をしてきたのだから、まずはその効果を見て欲しい、と言っているわけです。これは久光としては当然の心情であると言えるでしょう。
 また、次の部分は、

「諸藩を京都に呼び寄せたりして勝手に動かれると、公武合体の支障をきたしますよ」

 と久光は述べているわけですが、これは朝廷の曖昧な態度を大きく批判している部分でもあると思います。薩摩が力を持てば薩摩に近寄り、長州が羽振りが良くなったら長州に近寄る、こういった極めて節操の無い朝廷の態度を厳しく批判したものであると思います。

 このように、京都に戻ってきてからの久光は、攘夷熱が噴出する朝廷の荒れた現状に対して、大きな不満を持っていたのですが、久光にはこの形勢を挽回し、新たに公武合体のための基礎作りを行う余裕がありませんでした。前述した「生麦事件」に端を発して、薩摩藩とイギリスとの関係が急激に悪化したためです。
 生麦村で自国民を殺害されたイギリスは、薩摩藩に対して武力を使って報復処置に出ることが当時は十分に予想されていたため、久光は長く京の都に滞在して、攘夷派の沈静に力を注ぎ、そして公武合体のための巻き返しの運動を行なうことが出来なかったのです。
 つまり、久光は一刻も早く薩摩に戻り、イギリス艦隊来襲に向けての準備をする必要があったのです。
 偶然に起こった生麦事件の結果が、久光が京都に長く滞在することを出来なくし、そしてそのことが尊皇攘夷派に一層の隆盛を極めさせるところにまで事態が波及するのですから、歴史というものは、一つ一つの偶然が非常に奇妙な縁で繋がっている不思議なものであると言えましょう。

 さて、これまで書いてきたように、生麦事件の影響で、久光は急ぎ薩摩に帰国しなければならなくなったのですが、彼は出発する前々日の文久2(1862)年閏8月21日、近衛忠熙前関白の所望に対し、国事に関する十二箇条からなる長文の意見書を朝廷に対して提出しました。その内容は、前述した久光の建白書の内容と同様に、「過激な攘夷論には惑わされないように」ということが主体として書かれているのですが、この意見書の中には、後々会津藩と薩摩藩の関係を考える上で非常に重要なことが書かれています。

 久光が江戸を離れ、京都に戻ったのが文久2(1862)年閏8月7日であったことは前述しましたが、その六日前に、会津藩には大きな運命が待ち受けていました。
 文久2(1862)年閏8月1日、会津藩主・松平容保が幕府からの命により、「京都守護職」を拝命したのです。
 この容保の守護職拝命の経緯については、今回は詳細を書きません。これについて書いていくと、この会津藩の話はいつまでも終わりそうにありませんので。
 と、言う訳で、簡単にここでは端折って書きますが、その容保の守護職拝命について、久光は朝廷に提出した十二箇条からなる長文の意見書の中で、次のように書いています。


「尤松平肥後守御當地守護之儀者速ニ免許有之候様左無候而者是以人心疑念之基タルノ旨屹度被仰出度奉存候事」
(『島津久光公実紀(第一巻)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「もっとも、松平肥後守容保公を京都守護の任にあてようとしている件につきましては、速やかに許可を与えて頂きますように願います。左様なくては、人心疑念の本ととなってしまいますので、必ず仰せ出されますようにお願いいたします」



 幕府が容保を京都守護職に任命しようとした経緯については詳しくは書きませんが、元々京都所司代の人選が非常に難航したため、幕府は当初容保を所司代に任命しようと考えました。
 しかしながら、これが会津藩の大きな不満を引き起こしました。京都所司代の職は、譜代大名の任ぜられるべき職であって、家門(徳川将軍家の親族の内の御三家・御三卿以外の大名)である会津藩が引き受けるべき職ではないと、会津藩側が主張したからです。つまり、「京都所司代のような下職を家門である会津藩が引き受けられようか!」という感じであったのです。
 そのために、幕府は京都所司代よりも格上ということで「京都守護職」という新たなポストを新設し、会津藩にその就任を求め、容保は最終的にそれを承諾することになるのです。
 しかしながら、このように京都守護職という職は、急遽臨時で置かれたものであったため、元々あった京都所司代との間の職務権限については、ちゃんとした職掌の取り決めが無く、当時非常に混乱したことが、徳川慶喜の後年の回顧録『昔夢会筆記』という史料の中に出てきます。
 この史料は問答形式になっていますので、最初が質問者で、後が慶喜が語ったことです。興味深いことが書かれていますので、少し長いですが抜き出してみます。


井野邊「それから会津の守護職でございますが、守護職と申しますと、所司代の上に位して京都を指揮するもので、よほど権力の強いものであろうと思われますが、さきほど申し上げました浪人問題のことにつきまして、二月八日守護職から言路を開くという御触書を出します時に、守護職から所司代に廻しまして、所司代の方からそのお触れを出させようといたしました。その時所司代がこれを拒みました詞のなかに、所司代は老中の命は受けるけれども、守護職の命は受けないと申しております。して見ますると、当時の守護職は、所司代あたりに命令を下しまするだけの権力を持ちませんわけでございましょうか」

公(慶喜)「あれはいったい京都の方は昔から所司代で間に合うのだ。けれども所司代は兵力が足らない。ところで浪人だの藩士だのが大勢京都に集まり、なかにも長州だとか薩州だとか、所司代の力で押さえることはできかねる。そこで守護職というものができたんだ。その守護職のできた最初の起りというものは、所司代の力が足らぬから兵力を増そう、そこで兵力のある者をあすこへ置こうというのが一番最初の起りだ。それで肥後守が守護職となった」
(『昔夢会筆記(徳川慶喜回想談)』より抜粋)



 色々な意味において、この談話は非常に興味深いものです。
 まず、守護職と所司代の関係は、このようにお互いが牽制し合うものであったことがよく分かります。
 幕府から「所司代よりも格上だぞ」と言われながらも、京都守護職については、その実なかなか自由が効かないこともたくさんあったことがうかがわれます。その点においては、会津藩士達はさぞかし大変な苦労をしたのではないでしょうか。
 また、慶喜のこの談話の中にはもう一つ非常に重要なことが書かれています。と、言いますのは、慶喜がこの中ではっきりと、

「兵力が必要であったので、会津藩に守護職を頼んだ」

 と言っているということです。
 つまり、幕府や慶喜にとっては、「京都守護職・会津藩」というものは単なる「武力の背景」にしか過ぎなかったという認識をかなりのウェイトを占めていたということです。会津藩側から言わせると、まさに「ふざけるな!」と言いたくなるような話です。
 確かに、後年政治情勢が緊迫してくると、慶喜や幕府が自分達には責任がなく、まるで会津藩だけが悪者であるかのように邪魔者扱いし、江戸から退去させたりしていますが、それは元々会津藩に対して、慶喜が回顧して語ったような、こういった軽い認識しか持ち合わせていなかったことに、その要因の一つがあったということは、非常に重要なことだと思います。
 これについてはテーマがそれてしまいますので詳しくは書きませんが、この幕府と慶喜の会津藩に対する認識は、会津藩の命運を大きく左右したと言えるのではないでしょうか。


(8)に続く




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