「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(8)文久年間当時の会津藩と薩摩藩の関係A
 さて、話を久光の意見書に戻します。
 文久2(1862)年閏8月1日に松平容保が幕府から「京都守護職」を拝命したことについて、島津久光は朝廷に対して、「すぐにその件については勅許あるべきです」と意見したことは前述しました。
 このような事項を久光が意見書の中に書き入れたのは、やはり当時の京都の現状が浪人・志士達が跋扈し、また、過激な論を吹聴する輩が非常に多くいた荒れた状態であったため、久光がそのことを非常に憂慮していたからであると思います。
 すなわち、久光としては一刻も早く京都の治安維持を求めたのではないでしょうか。
 ただ……、久光自身は容保を守護職就任に推薦することは、苦肉の策であったとも思います。なぜならば、久光自身も容保が拝命した京都守護職に非常に色気を持っていたからです。久光としては、本来ならば自分がその任にあたりたかったのでしょうが、それが出来ない状況であったため、容保を推挙する動きに出たのだと思われます。

 久光としては、幕政改革要求に成功した後は、京都にそのまま滞在し、色々と手を尽くして公武合体のために働きたかったと思うのですが、生麦事件によるイギリスとの関係悪化のため、そうすることが出来ず、急いで帰国しなければならなくなったことは前述した通りです。
 この点から考えると、久光にとっては、生麦事件は「痛恨の一撃」であったと言えるかもしれません。
 そのため、久光としては京都守護職を引き受けて、禁裏守護を実現したいという気持ちはあったでしょうが、この時点では久光の守護職就任の夢は実現しなかったのです。
 ただ、補足しますが、久光は独りよがりな気持ちで京都守護職になりたがっていたというわけでは決してありません。実は孝明天皇自身もまた、久光を守護職に任じたいという意向を持っていたのです。

 孝明天皇の信任を得た人物と言うと、真っ先にその名が挙がるのが、会津藩主・松平容保だと思うのですが、島津久光という人物もまた、孝明天皇の厚い信頼を得ていた人物であったことは、幕末史を理解する上でもう一度再確認する必要があると思います。
 会津藩側の史料である『京都守護職始末』にも、久光を守護職に任じたいと考える当時の朝廷の空気が分かる記述が出てきますので、少しその部分を抜粋してみます。


「さきに勅使大原重徳卿が西に帰るや、島津三郎もそれに従って西上し、その途中、武州の生麦駅で、英国人が儀従を犯したかどでこれを斬首したが(世にこれを生麦の変とよぶ)、入京するに及んで、諸公卿はその疎暴を論難するどころでなく、かえって勇敢たのむに足るとなし、殊に先に伏見において浮浪の徒の騒擾をしずめ、今また、勅使にしたがって攘夷督促の綸命をくだし、幕府をしてこれを奉戴させた、その功大なりというわけで、長く彼を輦下にとどめて守護の任にあたらせようとした」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 この部分を読むと、久光が京都伏見の寺田屋で藩内の倒幕急進派を粛正し、またその後関東に下向して、幕府に対して幕政改革案を承諾させたことに対しての功を朝廷が非常に買っていたことが分かります。そしてこのことが、孝明天皇の久光への信任を厚くしていたと言えましょう。
 また、会津藩側の記録にまでこういった記述が出てくると言うことは、当時の久光に対する朝廷の信任が非常に大きなものであったという一端をうかがい知れるのではないかと思います。
 しかし、『京都守護職始末』のこの後の記述には、次のように書かれています。

「しかし、長州土州の二藩がこれを喜ばないので、まだ命を発せずにいた」

 つまり、久光の京都守護職任命問題が、長州藩と土佐藩の間で異議が出ていたことから、朝廷がその命を発せられずにいたという風に書かれてあるのです。

 この時点での薩摩藩と長州藩の関係について少し書きますが、当時の両藩の関係は、後年のようなお互いが相容れないような「犬猿の仲」では決してありません。両藩の関係が決定的にこじれるのは、「八月十八日の政変」以後のことです。
 ただ、この当時の長州藩はその藩論を最もラジカルな尊皇攘夷論に百八十度転換したばかりですので、公武合体を目指していた薩摩藩とは、その方向性が完全に違っていたことは間違いありません。
 また、当時の両藩はライバル意識が非常に旺盛と言いましょうか、政局の主導権を取ろうとお互いが競争し合っているような状態でしたので、長州藩としては久光の守護職就任は許容出来ないものであったと思います。

 次に土佐藩の場合ですが、この当時の土佐藩は、武市半平太率いる「土佐勤王党」の勢力が藩内で大きく拡大し、長州藩士らと連携して色々と朝廷工作を行っていたので、自然公武合体派の薩摩藩とは相容れぬようになり、久光の守護職就任に関しても、やはり反対の意見を持っていたのです。
 また、何度も書きますが、当の久光自身が守護職を引き受けたくても受けられない事情があったため、結局久光はその就任を諦めるしかなかったため、容保の守護職就任を速やかに許可して頂けるようにと朝廷への意見書に書き記すことになったのだと私は考えています。
 このようにして、結局は文久2(1862)年閏8月23日、久光は薩摩に向かって帰国し、彼の守護職就任問題は一旦沈静化したかのように見えたのですが、その約三ヶ月後に、事態はまた大きく急転することになるのです。

 文久2(1862)年11月12日、京都の朝廷は松平容保と共に島津久光を京都守護職に任命する旨の叡旨を幕府に対して出しました。
 この勅書についても、作家の海音寺潮五郎氏が著作『西郷隆盛』の中で、分かりやすく現代語訳されていますので、今回も勅書の内容を分かりやすく把握出来るように、それを抜粋したいと思います。


「松平肥後守(会津容保)が京都守護職を申しつけられて、京都の警衛は行きとどき、至尊は御満足に思召されているが、一藩だけの奉職では人心の調和もどうかと思召して御心配である。よって、島津三郎が今般公武御一体の基本をつくることに努力し、皇国に忠誠を尽くしたことを御叡慮あって、格別に公武のためになるものと思召される。その上、同人は島津の当主でないから、京都守護に専念出来るはずとも思召される。このようにいろいろと思いめぐらされた上で、格別の叡慮をもって、断然、守護職を仰せ出されたのである。大樹家においても、この叡慮の貫徹するように、肥後守に三郎と共に勤めるよう申し渡されたいとの御沙汰である。十一月」
(海音寺潮五郎『西郷隆盛』第四巻より抜粋)



 この朝廷の勅書を読むと、久光に対する朝廷の信任の厚さと大きさが非常によく分かります。
 しかしながら、先に閏8月1日に幕府から京都守護職に任命されていた会津藩にとっては、この朝廷の叡旨は、屈辱以外の何物でもありませんでした。勅書の内容を読めば分かりますが、これは会津藩に対する一種の不信任状とも取れるからです。容保以下会津藩士達にとっては、久光を同職に就任させることは、何よりも耐え難い屈辱であったと思います。
 『七年史』には、この時の会津藩士達の感情について、次のように書かれています。


「会藩人等島津三郎守護職に任ぜらるべしと聞て、いたく喜ばず、或いは言ふ三郎は無位無官なり、我公の職を同ふすべきにあらす、寧ろ辞任し給ふにしかずと、幕府もまた議論紛々として、其任命を可とする者なし。肥後守これを聞いて曰く、苟くも京師と関東とに裨隘の事あらば、三郎元より可なり、官位を有せざるものまた可なり、我は只、協力して、公武の御一和を計らんのみと」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)



 この部分には、久光が守護職を任命される知らせを聞いた会津藩士達の不満の様子が、非常によく表れています。
 また、その後半部分には、容保自身が、

「久光が守護職になることは別に構わない。私はただ協力して公武合体を計るのみである」

 と非常に格好の良いことを言ったことになっていますが、それは本心から出たものでないことは明らかです。『七年史』は会津藩側の史料ですから、容保のことを良く書いているのは当たり前のことなので、この辺りは史料によって注意して読む必要性が出てきます。
 歴史史料を読む場合に注意しなければならないことですが、やはり一方通行ではなく、色々と多角的な視点から史料を読み解いていくことが重要だと思います。そこを注意しておかないと、ある史料に書かれている一方的な史論を鵜呑みにしてしまう恐れがありますので。つまり、この場合で言えば、会津藩側の史料だけではなく、幕府や薩摩藩という、その他の当事者側からの多角的な視点を含めて、事を判断する必要性があるのです。

 前述した『七年史』の記述とは異なり、容保が久光の守護職任命に大きな不満を持ち、反対したことは、越前藩の記録書である『続再夢紀事』の中に出てきます。
 文久2(1862)年11月22日、幕府に下された朝廷の「久光守護職任命の勅書」について評議するため、老中の板倉勝静以下幕閣のメンバーと松平容保らが、江戸城内の御用部屋に集まりました。
 『続再夢紀事』には、その時の評議の様子が次のように書かれています。


「営中に於て島津三郎殿に京都守護職を命せられるへしや否やの詮議ありしか会津殿殊の外不同意にて決議ニ至らざりし」
(『続再夢紀事(一)』より抜粋)



 『七年史』のように、容保は「久光の守護職を可なり」と言っているどころか、「殊の外不同意であったので、決議をすることが出来なかった」と『続再夢紀事』には書かれています。
 容保としては、守護職としてのプライドもあったでしょうし、武門の意地としても、この一件はどうしても譲ることの出来ないものであったと思います。

 ここで少し補足しますが、容保が江戸城内で評議に参加していることから見ても分かると思いますが、実はこの段階では、松平容保は未だ守護職として京都には赴任していません。容保が藩兵を引き連れて京都に入るのは、この年の暮れ、文久2(1862)年12月24日になってからのことです。
 容保が守護職拝命後、約五ヶ月間も京都に赴任しなかったのは、色々と理由があると思いますが、ここではテーマがそれてしまいますので、それについては書きません。
 しかし、容保は京都には赴任していないながらも、藩士を京都に派遣して、守護職の職務はちゃんと遂行出来るようには手配していました。それにも関わらず、朝廷から不信任を叩き付けられた容保の気持ちは、非常に複雑であったでしょうし、腹立たしいものであったかもしれません。
 ただ、公家という人種の人々は元来恐がりな性格なわけですから、会津藩主自らが京都に滞在し、そして指揮を執っていないことに大きな不安と不満があったのも頷ける話ではあります。

 さて、ここで少しだけ書きますが、肝心の孝明天皇が久光を京都守護職に任命しようと考えた理由についてですが、これには様々な考え方があります。孝明天皇自身の発案であったとか、久光がそれを望んで薩摩藩士に運動させたとか、色々な解釈があるのですが、海音寺潮五郎氏も書かれているとおり、私は孝明天皇自身の発案であったのではないかと思います。
 大きく分けてその理由を書くと、次の二つの理由からではないでしょうか。


一、久光は孝明天皇の大きな信任を得ていたため。

二、容保は守護職に任命されてはいながら、まだ京都に着任していなかったため。



 以上二つの理由、特に容保自身が京都に赴任していなかったこと、つまり京都の治安がちゃんと守られていなかったことが、孝明天皇の不安感を大きくし、久光を薩摩から呼び出そうと考え、そしてその理由付けのためにも、久光を守護職に任命しようと考えたのではないかと私は推察しています。(この一件については、色々と傍証はありますが、ここでは長くなりすぎてしまうので省略します)

 さて、ここまで島津久光の守護職就任問題に関わる会津藩と薩摩藩の動きについて長々と書いてきましたが、私が延々と文久2(1862)年のこの一件を書いたのは、文久3(1863)年当時の両藩の関係に、この守護職問題が非常に大きな影響を与えていると考えているからです。
 島津久光の守護職任命については、この後朝廷から会津藩に対しても「久光と協力して守護職を勤めるように」という叡旨が下されて、会津藩も渋々ながら久光の守護職就任を認めざるを得なくなり、また、幕府自体も将軍徳川家茂の名で、久光の守護職就任を承諾することになります。
 しかしながら、ここまで話が進みながらも、容保が京都に赴任することになったことや、最終的には久光が守護職就任を辞退したことで、この問題は決着へと向かうことになるのです。
 おそらく、久光にとっても守護職という役目は非常に魅力的であったと思いますが、やはり生麦事件に端を発したイギリスとの関係悪化が大きな影響を残しており、国元を離れることが出来なかったため、辞退せざるを得なかったと言えましょう。
 また、久光としては、会津藩と共に連携して守護職の任を遂行するつもりは無かったと言えるのではないでしょうか。おそらく、会津藩が猛烈に久光の守護職就任に反対したということは、薩摩に居た久光の耳にも入っていたと思いますし、このことにより、久光自身も会津藩に対しては、内心面白からぬ感情を抱いていたと思われます。
 しかしながら、最終的にはこの薩摩と会津が手を結ぶことになり、そして「八月十八日の政変」が起こることになるわけですが、これはおそらく、久光にとっては、会津藩と提携するのは苦肉の策であったとも言えると思います。

 さて、ここまで時をさかのぼって延々と書いてきましたが、次回からはこの久光の守護職就任問題を念頭に置いた上で、いよいよ本題の「会津藩の天覧の馬揃え」へと続く過程に入っていきたいと思います。


(9)に続く




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