「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(9)会津藩の孤立と薩摩藩の焦り
 前回まで、「会津藩の天覧の馬揃え」から始まり、「真木和泉の画策した大和行幸計画」、それに伴って謀られた「尊皇攘夷派の朝廷と会津藩の離間工作」、またそれが失敗に終わり、会津藩主・松平容保に下された「孝明天皇の秘勅について」、そして最後には、会津藩と薩摩藩の関係を考える上でも重要な「島津久光の守護職就任問題」について書きました。

 ここまで非常に長々と書いてきたのは、これらは全て「会津藩と薩摩藩の提携」、そして「八月十八日の政変」という一大クーデターを考える上で、非常に重要な事項であると考えるからです。
 そして、今回からはいよいよ本題の「会津藩と薩摩藩の提携」の契機となったと思われる「会津藩の天覧の馬揃え」について、具体的に書いていきたいと思っています。
 これまで書いてきたことをパズルのように組み合わせて、今回からは「会津藩と薩摩藩の提携がいかにして行われることになったのか?」そして「そのきっかけとなったものは、何だったのか?」について書いていくつもりでいます。

 前回から大きく時代を戻して、会津藩主・松平容保に対して、朝廷から関東下向の勅命が下された文久3(1863)年6月25日から話を再開したいと思います。
 この勅命については、真木和泉が容保を京都守護職から解任させようと謀り、急進派公卿の中心人物であった三条実美を説いて、勅書として出させたものであることは以前に書きましたし、またその後、孝明天皇が容保に対して秘勅を降下し、結局容保は関東に下向することを免れたことも書きました。
 容保が関東下向の勅旨を受けた6月25日、当時京都に滞在していた薩摩藩士・吉井中助(幸輔)は、鹿児島に居た大久保一蔵と中山中左衛門の両名宛に、一通の手紙を書き送っています。
 吉井の手紙は当時の京都薩摩藩邸の公式報告書のようなものですから、当時の政情について詳しく書かれているのですが、その手紙の中に、非常に興味深い一文が書かれていますので、その部分をまずは抜粋したいと思います。


「尾州も引取申候、会津も引取模様御座候、却て仕合ニ被存候様子ニ御座候」
(『鹿児島県史料・忠義公史料第三巻』より抜粋)



 この一文を読んで理解するにあたり、まずは順を追って、簡単に解説が必要になってくると思います。
 まず、「尾州も引き取り申し候」という箇所ですが、これは6月21日に尾張徳川家の前藩主・徳川慶勝が京都を去り、領地の尾張に帰国したことを指しています。容保と慶勝は、共に美濃高須藩主・松平義健(まつだいらよしたつ)の子供であり、慶勝は容保の異母兄にあたる人物です。
 慶勝はこの頃京都に滞在し、容保と共に色々と朝廷と幕府の間を取り持つよう努力していたのですが、尊皇攘夷派の攻勢に対して、京都の政情に絶望し、尾張に帰国してしまったのです。
 『京都守護職始末』には、慶勝の帰国について次のように書かれています。少し長いですが、全文を抜き出してみます。


「いったい朝議が是か。幕府が非なのか。そのことは論ずるには及ばないが、公武の意見がいつもこんなふうに表裏するので、尾張慶勝卿もこの難局に当るのを苦に病み、そのうえ、大納言茂徳卿が江戸の留守居で失敗してから、国中で慶勝卿を慕うものが多く、人心が二派に分かれる情勢となってきたので、内の気がかりも深刻で、ついに病気と言って出てこず、わが公が目下の大勢を説いて協力を再三懇告してみたが、卿はすこしも応じようとせず、忿々として、二十一日(六月)封土に帰国してしまった」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 この『京都守護職始末』の一文には、慶勝の帰国の理由を「国許の尾張の様子が心配云々」と書かれていますが、前半部分の「尾張慶勝卿もこの難局に当るのを苦に病み」というところが、慶勝の帰国の本当の理由だったと判断出来るのではないでしょうか。
 つまり、慶勝が京都の政情に嫌気がさしたことが、その帰国の大きな理由であったと思います。平たく言えば、もうこれ以上京都に滞在していても、尊王攘夷派の攻撃が激しくなる一方なので、これ以上被害を蒙るような貧乏くじは引きたくない、と思ったのかもしれません。
 ともかく、こうして慶勝は政局に嫌気がさして、帰国することになったのです。思い通りにならないからと言って、すぐに嫌気がさしてやる気が無くなってしまうというのは、当時の大名特有の性格であったと言えるかもしれません。

 さて、慶勝に京都を去られた後の会津藩の状況については、『京都守護職始末』は次のように書いています。


「いまでは、公武の間に立って、双方の議の表裏をとりはからって一和を図るには、ただひとりわが公あるのみ。しかも、一旦大事件が起こっても、相談にのる有力な人がなく、守護職はまったく孤立の勢となった」
(山川浩『京都守護職始末・旧会津藩老臣の手記1』より抜粋)



 容保にとっては、自らの応援者であったはずの兄の慶勝の帰国が、かなり痛手であったことがよく分かります。
 それは、その翌日の22日に、容保が江戸の老中宛に送った手紙の中で、


「尾州大納言様御目代として、永く京地へ被差置候事」
(尾張の大納言(慶勝)を将軍家の御目代として、永く京都に差し置き下されたきこと)
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋。下記現代語訳はtsubu)



 と冒頭に書いていることから見ても明らかです。
 幕末の会津藩という藩は、京都守護職として赴任した後は、その周囲に強力な庇護者も無く、常に孤軍奮闘の形になってしまっていた感が否めません。そして、唯一の庇護者でもあった孝明天皇の死が、やはり会津藩を運命づける大きなものであったと言えるのではないでしょうか。

 さて、吉井幸輔の手紙から少しそれてしまいましたが、話を戻したいと思います。

「尾州も引取申候、会津も引取模様御座候、却て仕合ニ被存候様子ニ御座候」

 という、吉井の手紙の前半部分の「尾州云々」の意味はこれまで解説したとおりですが、次の「会津も引き取り模様に御座候」とは、容保に関東下向の勅命が下されたことを指しています。
 つまり、「会津藩にも関東下向の勅命が下ったので、京都を離れることになるであろう」ということを吉井は国許に報告しているわけです。
 そして、重要なのは次の部分です。


「却って仕合せに存ぜられ候様子に御座候」


 吉井がどういう意味でこういった表現を使っているのかと考えると、以下のような解釈が出来るのではないかと思います。

「尾張の慶勝公も帰国され、また、会津藩の容保公も京都から去られる様子になっています。却ってこれは都合の良いことになっていると思われる様子になっています」

 つまり、薩摩藩士の吉井は、「会津藩も京都から居なくなる様子なので、薩摩藩にとっては、却って都合の良いことになった」と国許の大久保らに対し報告していると解釈できます。
 この吉井の書簡に象徴されるように、この文久3(1863)年6月25日の段階では、薩摩藩は会津藩と提携するつもりは無く、逆に会津藩に対して、ライバル心が旺盛な様子さえうかがわれます。
 前回までに書きました「島津久光の守護職就任問題」以来、薩摩藩と言うより島津久光ですが、彼は会津藩に対して心は許していなかったと言えるでしょう。逆に、政局の主導権を握るために、会津藩に対しライバル心までも抱いていたように思われます。

 後に書くことになりますが、薩摩藩が会津藩に対して提携の話を持ち出したのは、兵力不足から単独ではクーデターを起こすことが出来なかったため、どうしても会津藩の武力に頼らざるを得なかったからであったと言えます。
 薩摩藩としては、出来れば単独でクーデターを起こし、この形勢を挽回したかったのでしょうが、この当時の京都の薩摩藩の兵力はわずか数百にしか過ぎませんでした。これは前回まで縷々書いてきましたが、生麦事件の報復として、イギリス艦隊が薩摩に来襲してくることに備える必要があったため、薩摩藩としては京都に十分な兵力を配備することが出来なかったからです。

 薩摩藩としては、朝議を思うがままに操っていた当時の長州藩を中心とした尊王攘夷派に対抗し、そして形勢をひっくり返すようなクーデターを起こすためには、やはり兵力という背景がどうしても必要であったと言えましょう。
 しかし、薩摩藩にはそれが無かった。なので、会津藩に接近し、提携話を持ちかけた。
 これが会薩両藩を提携に向かわせた一番の大きな理由であったことは間違いないと思います。
 もし、会薩両藩に兵力という背景が無ければ、後に起こる「八月十八日のクーデター」も成功しなかったでしょうし、また、最終的にゴーサインを出すことになる当の孝明天皇自身も、クーデターに承諾することは無かったと思います。
 つまり、クーデターには兵力は必要不可欠な要素であったわけです。

 会津藩と薩摩藩の提携は、薩摩藩は「会津藩に兵力を求め」、そして会津藩は「薩摩藩に政治力を求め」た結果生まれたものであると言えるのではないでしょうか。お互いに無いものを求め合ったことが、会津藩と薩摩藩を提携させることへと繋がっていったのだと私は考えています。
 また、提携や同盟というものは、本来は「お互いに無いものを補い合う」という性質の下に成立するものであると思います。

 さて、この当時、京都に居た薩摩藩の兵力が非常に少なかったことから、薩摩藩としては単独で事を起こすことが出来なかったため、クーデターに関して、他藩に先を越されるのではないかと、薩摩藩関係者が焦っていた様子をうかがえる話が、越前藩の記録である『続再夢紀事』の中に出てきます。
 吉井が先程の手紙を国許に送った約一週間後の文久3(1863)年7月2日に、次のようなことがあったと記されています。


「二日薩藩吉井仲介奈良原孝五郎来る村田巳三郎面接す両人云此節密に聞くに貴藩ハ加藩会藩へ御相談ありて暴論過激の徒を退治せらるへき御企あるよし薩藩の兵士目下京師に在るもの凡百人許なり愈其御企ある事なれは必決死これに応すへし」
(『続再夢紀事(一)』より抜粋)



 少し現代語訳すると、7月2日に薩摩藩の吉井と奈良原の二人がやって来て、越前藩の村田巳三郎に面会し、

「密かに聞いた話ですが、越前藩が加賀藩と会津藩と相談して、暴論・過激の連中を退治しようとするクーデター計画があるのを聞きました。薩摩藩の兵力は凡そ100人余りと少ないですが、計画が実行されることになれば、決死の覚悟でその挙に加わりたい」

 と語ったということです。
 この記述を読むと、当時の薩摩藩関係者が越前藩などの暴論過激の徒を一掃しようとするクーデター計画に出遅れることに大きな焦りを感じていたことがうかがえます。
 薩摩藩は、文久2(1862)年3月に島津久光が兵を率いて京都に入り、そして江戸に下って幕政改革要求に成功し、一時は政局の主導権を握りました。
 しかしながら、生麦事件の影響でイギリスとの関係が悪化し、久光はやむを得ず帰国しなければならなくなり、政局の主導権は、藩論を尊皇攘夷に転換した長州藩に握られてしまいました。久光や薩摩藩士にとっては、それは最も悔しいことであったに違いありません。
 こういったことが、薩摩藩士として、越前藩や会津藩の計画に遅れを取ることを恐れさせたのだと私は解釈しています。また、このような事情から、この当時の薩摩藩はある種焦燥感で一杯だったのではないでしょうか。
 結局吉井らが聞きつけた越前藩のクーデター計画はデマだったのですが、それにしても薩摩藩の二人の行動の裏には、やはり当時の薩摩藩の大きな焦りが感じられてなりません。
 また、奇しくもこの7月2日は、薩摩ではイギリス艦隊との間に「薩英戦争」の火蓋が切られた日でもあったのです。


(10)に続く




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