「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(10)池田慶徳の「天覧の馬揃え」の建言
 前回は文久3(1863)年7月当時の会津藩と薩摩藩の微妙な関係を薩摩藩士・吉井幸輔の手紙を引用しながら書きました。
 今回からはいよいよこの「テーマ随筆(前編)」の本題となる「会津藩の天覧の馬揃え」について、本格的に書いていきたいと思っています。
(注:天覧の馬揃えとは、天皇が各藩の兵隊の調練の様子を閲覧するいわゆる観兵式のことを言います)

 文久3(1863)年7月30日、8月5日の両日にわたって行われた「会津藩の天覧の馬揃え」は、会津藩の兵力の優秀さを天下に知らしめる効果があり、そのことがクーデターのために兵力(武力)を必要としていた薩摩藩士達の目に留まるところとなり、会津藩と薩摩藩を結びつける契機になったのではないかと私は推測し、そのことについてはこれまで少しだけ触れて書きました。
 会津藩側の史料である『京都守護職始末』や『七年史』、『鞅掌録』には、馬揃えの様子は克明に書かれているものの、この会津藩の馬揃えが、具体的にどのような経緯で行われることに決定したのかについては、そこまで詳しい記載がありません。
 歴史の非常に面白いところだと思うのですが、会津藩と薩摩藩を結びつけるきっかけともなった「天覧の馬揃え」を朝廷に建議したのは、当事者であった会津藩でも薩摩藩でもなく、第三者である因州鳥取藩主・池田慶徳(いけだよしのり。松平慶徳)であったことです。
 池田慶徳が馬揃えを建議したことは、『七年史』と『鞅掌録』の記述を抜粋して以前に少し触れましたが、もう一度その部分について書き出してみることにします。


「二十四日、朝廷は松平相模守慶徳が言に従われて、伝奏飛鳥井中納言雅典を以て、会藩の馬揃天覧あるべき旨仰出されけり」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(7月)24日、朝廷は松平(池田)相模守慶徳の進言に従われて、伝奏・飛鳥井中納言雅典をもって、会津藩の馬揃えを天覧する旨を仰せ出された」


「二十四日ハ伝奏より我公ヲシテ建春門外ニ於テ馬揃ヲナシ叡覧ニ入レ奉ルヘキヲ命セラル因州侯等ノ建言ニ因テ也」
(日本史籍協会編『会津藩庁記録三』所収・広沢安任『鞅掌録』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(7月)24日は、伝奏より我が藩公(容保)に対し、御所の建春門外において、馬揃えを叡覧に入れられるようにとの命があった。これは因州候(松平慶徳)らの建言によるものである」



 このように、どちらの史料にも、池田慶徳が建言したことによって、「馬揃え」を会津藩に行うようにという勅命が下ったと記されています。
 今回からは、その馬揃えを朝廷に建議した池田慶徳の伝記である『贈従一位池田慶徳公御伝記』を参考史料にして、具体的に会津藩の馬揃えが「どのような経緯で執り行われることになったか?」と「その馬揃えに込められた意味」について、詳しく考察していきたいと思います。

 以前にも書きましたが、池田慶徳は前水戸藩主・徳川斉昭の五男で、後の第15代将軍・徳川慶喜の兄にあたる人物です。(慶喜は斉昭の七男)
 このように慶徳は幕府に近い血筋にあった関係から、政治方策に関しては幕府寄りの意見を持っており、また、長州藩に良いように操られている朝廷の現状については、京都守護職の会津藩主・松平容保と同様に、その事態を憂いている人物の一人でもありました。
 特にこの頃朝議に持ち上がっていた長州藩と真木和泉が裏で画策している孝明天皇の「大和行幸・攘夷親征計画」に関しては、慶徳は強い反対の意見を持っており、文久3(1863)年7月14日には、その攘夷親征に反対する長文の建白書を朝廷に対して提出しています。
 この慶徳が提出した建白書の内容については、『贈従一位池田慶徳公御伝記』に記載がありますので、まずはその一部分を抜き出してみたいと思います。かなり長文になりますが、慶徳が攘夷親征にどれくらい反対していたのかを知って頂くために、敢えて長い文を抜粋します。また、原文は漢文交じりのものになっていて、非常に読みにくいものですので、私が後で分かりやすく現代語訳したものを同時に書きたいと思います。(漢文が苦手な方は、現代語訳の方だけをお読み下さい)


「当節形勢切迫とは乍申、有公卿、有幕府、有列藩、若夷賊進畿及辺境伺事有之、幕府拒戦之術を尽す、勿論之事、無左右は公卿英武之諸藩有将略輩に詔有て、鏖戦之術を尽さしめ、猶敗衂多き時は親王方被任将帥、其上にて御親征と相成御手続と相考候。右御親征之御評議、其論雖壮似、未当機会、(中略)匹夫の言、且取用ふるは唐虞之時のみ、雖然、軽々敷用下之言て、又誤国道事其類不少候。伏て願くは、何事も慎重に御処置、名実相叶、皇権相重き時は、兼て所奉仰之王室、天下之億兆誰有不帰哉。左候はゝ、御親征無此上難有事不被為当機会は、却て非損皇威のみ、若此事天下に流布し、無其実事共有之候はゝ、畢竟、天下億兆之心を可被遊御失と奉存候」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)


(現代語訳by tsubu)
「当時の形勢が切迫しているとは申しながら、我が国には、公卿があり、幕府があり、列藩が存在しております。もし、外国勢が畿内に進んで侵略し、その周辺を犯すようなことがあったとしたならば、必ず幕府がそれを拒絶するべく、戦術を尽くすことでしょう。また、そうでなければ、公卿衆や諸藩の武勇に優れた者に勅旨を下されて、まずは彼らに必戦の術を尽くさしめるべきでございます。なお、それでも敗戦が色濃くなるならば、親王を将帥に任命されて、その上で帝が御親征なさるという手段を取られるのが、まず宜しいかと私は考えております。御親征の御評議は、その論は甚だ勇壮なものと感じられますが、未だそれを行う機会ではありません。(中略)身分の低い者の言を採用になって、かつそれを用いるのは、中国の尭舜の時代のような平和な時のみであって、軽々しく身分の低い者の言を採用したがゆえに、国の政道を誤る例も少なからずございます。そのため、伏して願いますのは、何事も慎重に処置をなさって頂きますように願います。名実共に立ち、朝廷の権威が重い時には、朝廷の仰せ出されることについて、天下の誰がそれにそむくものがございましょうか。このようなことから考えましても、御親征はこの上無き難しき事であると思いますので、この機会にそれを実行なされては、却って朝廷の権威を損じるだけでなく、もし、そのことが天下に知れ渡り、また、この親征が実の無いものになってしまったなら、天下万民の人心を失うことになるやもしれぬと私は心配いたしております」



 非常に長い文を書きましたが、池田慶徳の意見を簡単に要約しますと、

「日本には公家や幕府や諸侯がいるのです。まずは彼らをして先に攘夷の任に当らせるべきであり、帝自身が軽々しく動かれる時機ではありません。もし、そのような軽挙なことをなされると、朝廷の権威は地に落ち、天下万民の人心まで失うことになりかねません。なので、何事も匹夫の言に惑わされること無く、慎重に御評議して頂きますように」

 と、いう感じになるでしょうか。
 この建白書の内容を読むと、当時の慶徳自身が、攘夷親征に対して強烈な反対意見を持っていたことがよく分かります。

 このように、慶徳は攘夷親征に反対する建白書を朝廷に提出したのですが、朝廷では尊皇攘夷派を恐れたためか、それを採用する気配もみられず、益々攘夷親征派の勢力は大きくなる一方でした。
 そんな朝廷の煮え切らない態度に対して、慶徳はここで一つの作戦に出ます。親征反対の建白書を提出した六日後の文久3(1863)年7月19日、鷹司関白の屋敷で開かれた朝議の場において、慶徳は「天覧の馬揃え」のことを建議したのです。
 文久3(1863)年7月19日、鷹司関白邸で行われた朝議には、池田慶徳の他に、備前岡山藩主・池田茂政、阿波徳島藩主の世子・蜂須賀茂韶、土佐藩主・山内豊範、米沢藩主・上杉斉憲などの大藩の諸侯も出席していました。慶徳はこの席上で「天覧の馬揃え」について建言するのですが、その内容については、『贈従一位池田慶徳公御伝記』に次のように書かれています。


「攘夷親征の事を是なりとするも、主上を始め奉り、諸公卿皆兵を知り給はで何の為す所やあるべき、苟も親征あらんには、先ず武道を講習せざるべからず、会津既に守護の任として其兵多し、且つ、某等の京に在る者兵また鮮やからず、右等の諸藩に御命令ありて、其武装を見、其砲声に慣れ、然る後御親征の事をも議せらるべくや、未だ其機とは存ぜず」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)


現代語訳しますと、次の通りです。

(現代語訳by tsubu)
「大和への攘夷親征は是非無いことだとしても、帝を始め公卿様におかれましても、皆、戦術など兵法を知らないようでは、親征を行うなど、どうして出来ましょうか。どうしても御親征をなされるというのでありましたら、帝を始め公卿様におかれましても、先ず武道などの戦術・兵術を学ぶべきです。会津藩は既に守護職に任じられ在京の兵力も多く、また、その他の藩の兵隊もよく整っております。これらの諸藩に命令をされて、その武装や戦術などをご覧になり、砲声などにも慣れられて、しかる後に御親征の議をはかられてはいかがでございましょうか。そのため、現段階では、御親征を実行する時機ではないと私は考えております」



 慶徳は「攘夷親征の事を是なりとするも」とは言っていますが、これはあくまでも建前論であり、その後に続く文言からは、親征に反対の意を込めて発言していることは明らかですし、最後には「未だ其機とは存ぜず」とはっきりと言っています。これは前述した攘夷親征を反対する慶徳の建白書の内容と同様の趣旨が込められた建言であることが分かります。
 少し補足しますが、この当時、孝明天皇の攘夷親征に賛意を表明していたのは、大和行幸を強力に推進している長州藩と真木和泉の居た久留米藩の二藩だけで、その他の会津藩や因州鳥取藩、備前岡山藩、米沢藩などは、いずれも反対の意見を持っていました。
 ただ、朝議自体が長州藩を中心とした尊皇攘夷派に牛耳られているような状況でしたから、親征反対の意見を持つ大名も、当時は公然とはなかなか反対しづらいものがあったのです。

 さて、少し具体的に話を進めますが、慶徳は「まず、諸藩の武装や戦術をご覧になってから、親征の議をはかるべきである」と建言しています。この建言が後に会津藩に馬揃えが命ぜられる原因となるわけですが、それではなぜ慶徳はこの席上で親征に反対すると同時に、「天覧の馬揃え(天覧の観兵式)」について建言したのでしょうか?
 その後の慶徳の動きや発言、また会津藩などの動きを考えますと、私はその理由は大きく分けて二つあったと推測しています。


 まずは、一点目。

 
一、実際の兵隊の調練を見せることによって、親征の議を取りやめるように仕向けようとしたため。

 攘夷親征決行と声高に唱える公卿達は、当然戦争というものがどういうものかも知らず、また、実際に戦闘を見たことも無ければ、参加したことも無い連中ばかりです。そのため、実際に荒々しい戦闘や激しい調練の様子をその公卿達に見せつけることによって、彼らに「実際の戦闘とはこういう恐ろしいものだ」という恐怖心を植え付け、そのことによって親征を諦めさせるように仕向けるという目的があったのではないかと私は考えています。
 公卿なんていうものは、典型的な臆病な連中であるということは、日本史を少しでも勉強したことのある方であればご存知であると思います。慶徳としては、盛大な軍事調練を彼ら公卿に見せつけることによって、親征派の公卿達を畏怖させ、親征の議を取りやめるように持っていこうと考えたのではないでしょうか。
 このことは慶徳の建言の内容にも見え隠れしています。「其武装を見、其砲声に慣れ」なんて慶徳は言っていますから、公卿達を大いに怖がらせてやろうと考えたのだと思います。
 後に書くことになりますが、親征派の旗頭となっていた三条実美は、会津藩の荒々しい馬揃えを見て、当日非常に怯えていたとの記録が残っていますので、実際にそういう効果はあったと思います。


 そして、二点目。

 
二、親征反対派の諸藩による大々的な馬揃え(軍事調練)を見せることによって、親征を推進する尊皇攘夷派を牽制しようとしたため。

 親征を推進している真木や長州藩などの尊皇攘夷派は、会津藩の武力を非常に恐れていたことについては、以前詳しく書きました。親征推進派としては、会津藩などの反対派が、その兵力を背景に武力クーデターを起こすことを何よりも恐れていたため、真木和泉が朝廷と会津藩を離間させる策略を立て、松平容保を京都守護職から解任させようと画策したことも以前に書いたとおりです。
 慶徳としては、親征反対派による大々的な軍事調練を長州藩ら親征推進派に見せつけることによって、彼らを武力的に牽制しようとしたのではないでしょうか。
「いざという時は、これだけの兵力があるんだぞ!」
 というような感じで、親征反対派の軍事力を見せつけ、強引に親征を進める尊皇攘夷派を牽制しようとしたのだと思います。
 つまり、この「天覧の馬揃え」は、親征反対派による一種の示威活動であったと私は考えています。

 ただ、以前にも書きましたが、会津藩にしても、そして池田慶徳の因州鳥取藩にしても、

「大々的な馬揃えを行なって、長州藩を中心とした親征推進派を暗に牽制する」

 という、ここまでの行動や策略が一種彼らの限界でもあったのです。そこから一歩踏み込んで、その持っている軍事力を背景に一気にクーデター(政変)を起こそうする行動力や政治力が、残念ながら彼らには欠如していたと言えるでしょう。いや、彼らもそういった考えを持っていたかもしれませんが、実際に実行する勇気や決断力に欠けていたと言えるかもしれません。
 このように最後の決断を下すことが出来ないような状況でしたから、薩摩藩が会津藩に対してクーデター計画を持ちかけて、初めて会津藩もその重い腰を上げることになるのです。
 薩摩藩という藩が、なぜ幕末維新史において常に政治の主導権を握ることが出来たのかは、やはりその持っている政治力の巧みさということが一番に挙げられると思います。

 ただ、ここで少し補足しますが、幕末の歴史を語る際に、薩摩藩を「政治的にやり方が汚い」と論ずる傾向が多々ありますが、それは幕末という歴史をほんの上辺だけしか見ていない、真の部分をまったく捉えていない、非常に卑小な論のような気がします。
 最初に書きますが、私は薩摩藩を弁護する気はまったくありません。確かに、私は薩摩藩の歴史が好きで、それを勉強していますが、幕末という歴史を見る際には、常に冷静でかつ多角的に物事を見るように心がけています。
 ただ、補足しますが、多角的にものを見るということと、公平や平等的にものを見るということとは、私は根本的に違うと思っています。

 少し話がそれるのをご了承頂きたいのですが、公平・平等に歴史を見ること自体、はっきり言って、それは非常に困難なことであり、不可能に近いと私は思っています。なぜならば、我々人間は人それぞれ性格も違い、また人それぞれには感情があり、趣向つまり好き嫌いがあるわけですから、人それぞれに価値基準や判断が違ってくるのは当たり前のことだと思うだからです。
 よく学校で使用する「歴史教科書」をなるべく公平な視点から捉えたものにしようと言われますが、そのこと自体、はっきり言ってそれはナンセンスに近いものであると私は考えています。教科書と言えども、所詮は人間の手によって書かれたものなのですから、その中に執筆者の主観や史観や感情が入るのは致し方のないことだと思うからです。
 つまり、全てを平等にかつ公平に書くなんていうことは、はなから不可能な話なのです。もし、そんなものを書こうとしたら、感情がないロボットに書かせなくてはならなくなります。いや、ロボットにだってある程度の主観が入らないと書けないかもしれません。

 これまで述べてきたように、歴史を公平にかつ平等に見ようという考え方自体に、私自身は実はものすごく違和感を感じています。
 私は、歴史というものは「解釈」であると考えています。人間が一人一人が解釈するのですから、ぞれぞれの解釈の違いによって、色々な答えが出てくるものです。人それぞれの知識や経験の量や質などの違いによって、人それぞれ一つの歴史事項を考える際に、その解釈が違ってくるのは当然なことなのです。
 人間にはそれぞれ育ってきた環境や今まで得た知識の質や量というものは様々で、異なっているのは当然なことですから、歴史を考える上で、その解釈に違いが出来てくるのも当然だと言えます。
 つまり、歴史というものは、人間が持っている全知全能を使って考え出す「解釈の産物」であると私は思うのです。ですから、歴史においてはどんな説があっても良いと私は思いますし、決しておかしくはないと思います。
 また、導き出された複数の歴史解釈や説の中に正しい答えが一つだけあるとは限りません。正しい答えが一つだけある場合もありますし、正しい答えが複数に渡って出てくるものもあると思います。
 このように歴史というものは数学のように方程式では解けないものなのです。歴史の中には色々な複数の真実があると私は考えています。

 歴史を勉強していく上でとても重要なことは、何よりも先にまず考えることだと私は思います。
 歴史だからと言って、まず先に史料を調べるものではありません。まず、先に考えて考え抜くことが必要であり、重要だと思います。そして、考えに考え抜いた結果、導き出した一つの解釈を、その後、その裏付けを取るために史料を調べる。結局は、歴史とはブランクだらけの代物ですから、その全てを史料で補うのは元来不可能なのです。なので、その生じた歴史の空白は、人間が全知全能を使って考えて考え抜いて埋めていかなければならないものだと思います。
 そのため、公平や平等という観点からではなく、以前にも書きましたが、一つの事件、一人の人物、どんな歴史上の出来事を考えるにしても、常に多角的に色々な角度からものを捉えることが重要であると思います。

「歴史とは、多角的に見なければその本質には迫れない」

 私はそう考えています。

 例えば、幕末の薩摩藩の歴史を知るために、薩摩藩の歴史書や関連本、西郷や大久保の伝記ばかりをいくらたくさん読んだとしても、薩摩藩の真の実像や歴史は、決して理解することは出来ないでしょう。
 これまでも本文中で書いてきましたが、歴史書というものには、当然の如く嘘を書いたり、勘違いの記述があったり、誇張した記述があったり、史実を誤魔化して記述したり等々、色々な誤記が存在します。
 当然、薩摩藩を描いた本は、薩摩藩を内部から見たものが多いわけですから、そういう種類の誤記がたくさんあったり、ややもすれば薩摩藩のことを美化して書いている部分も多く見受けられることでしょう。これは何も薩摩藩だけに限ったことではありません。会津藩の史料もしかり、長州藩の史料もしかりです。こういった傾向は、歴史書全般に言えることだと思います。
 そのため、そういった歴史書に書かれた誤記をそのまま鵜呑みにせず、「この記述は間違い」だと認識し、真の薩摩藩を理解していくためには、外から見た薩摩藩、つまり長州藩から見た薩摩藩、幕府から見た薩摩藩、会津藩から見た薩摩藩等々、様々な多角的な角度から見た「外から見た薩摩藩」の姿も知らなければならなくなるのです。そうしなければ、歴史書に書かれたウソ(誤記)は見抜けないからです。
 内から見た歴史だけでなく、外から見た歴史も、史実をつかむ上では非常に大事なことだと思います。

 本論から大きくそれて、長々と私自身の歴史論を書いてしまいましたが、会津藩と薩摩藩の歴史を考える際には、必ず会津と薩摩の両藩の歴史や史料を調べ上げる必要性が出てきます。また、その両藩だけではなく、当時その両藩を見ていた長州藩や土佐藩、そして幕府側の史料なども調べることも非常に重要になってくると思います。
 これまで書いてきたとおり、歴史を公平・平等に見ることは、人間には非常に難しく困難であると思いますが、あらゆる角度から多角的に歴史を見ることは可能だと思います。
 多角的に様々な角度から見た歴史を自分自身の持つ全ての知識や経験をフルに使い、長い時間をかけて考えて考えぬき、そして史料などと突き合わせながら自らの考えを整理して、一つの解釈を導き出す。これこそが歴史を学ぶ意義であり、醍醐味であり、そして歴史そのものの本質だと私は考えています。

 非常に長くなってしまいましたが、私は幕末における薩摩藩の政治活動の全てを「良し」とも思いませんし、全てを「悪し」とも思いません。
 前述しましたが、薩摩藩の場合、「一旦会津藩と手を握りながら、後には裏切って、長州藩と手を握った。そのやり方が非常に汚い」とよく言われる傾向にあります。確かに、感情論だけで全てを律すれば、薩摩藩の態度は節操の無いものと見えるかもしれません。
 しかしながら、歴史は感情論だけで語ることが出来ないことは周知の事実です。
 これまでも長々と書いてきましたが、薩摩藩が会津藩と手を結んだのには、必ずその理由があるのです。それは逆に会津藩も同じです。会津藩が薩摩藩と手を結んだのには、必ずやその理由が存在するのです。つまり、後に会津と薩摩が提携を切ることになることにも、ちゃんとした理由が存在するわけです。その理由を正確に理解せずに、「薩摩藩は義に反する、汚い」などと論じるのは、全く持って歴史を多角的どころか、感情論だけに流されて、歴史の上辺だけをなぞっている見方としか言えないのではないでしょうか。

 幕末期、薩摩藩や長州藩が最後の最後まで生き残ることが出来たのは、端的に言えば、政治の勝利と言えましょう。この点で言うならば、会津藩やその他の諸藩は、政治で負け失敗したと言えるのではないでしょうか。
 これは幕府も同じです。
 なぜ幕府が滅んでしまったのか?
 この問いに対する一番明確な答えは、「幕府は、薩摩藩や長州藩よりも政治力が劣っていたから」だと私は思います。

 話を戻しますが、結局八月十八日のクーデター計画は、薩摩藩の政治力と会津藩の軍事力という二つの要素が合わさって、ようやく実現することになるのです。
 そして、このきっかけを作ったのが第三者の池田慶徳であったとするならば、歴史とは奇妙な縁で色々な事象が繋がる非常に面白いものだと感じてなりません。


(11)に続く




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