「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(11)会津藩の馬揃えの経緯
 前回は途中でかなり話がそれましたが、文久3(1863)年7月19日、関白・鷹司輔熙邸において、池田慶徳が「天覧の馬揃え」を建議したことと、そして、その建議に込められた意味について書きました。
 今回はその慶徳の建議から、どのような形で馬揃えが行なわれることになったのかについて書いていきたいと思います。

 池田慶徳が馬揃えの建議を行なった翌日の7月20日、鷹司関白は慶徳の建議を受けて、それを付議するために朝議を開きました。
 しかし、議奏などが朝議の席に姿を現さず、ほとんどのメンバーがその朝議を欠席したのです。
 『贈従一位池田慶徳公御伝記』には、その時の様子が次のように書かれています。


「是日、朝廷議奏一同出仕せず。関白大に憤り、急ぎ出仕を促かしたるに、皆大名の意見通りては堂上の意見相立たずとて不参を申立てたれば、強いて出仕すべしとの命にて、僅に広幡大納言・徳大寺内大臣の出仕ありたるのみ。他には二条右大臣・近衛左大将のあるばかりにて、何等決する事なく退出となれり」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「この日、朝廷の議奏一同は出仕しなかった。関白はこのことを大いに憤り、急ぎ出仕するように促したのであるが、皆、「大名の意見が通っては、堂上(公卿)らの意見も立たず、面目が立たない」との理由で出仕しようとしなかった。それでも、関白は出仕するように強要したが、僅かに広幡大納言と徳大寺内大臣が出仕してきたのみで、他には二条右大臣と近衛左大将だけであったので、何も決議する事なく退出となった」



「大名の意見が通ってしまっては、堂上(公卿)の面目が立たない」なんていう理由をたてに出仕しないなど、公卿というものは本当に何を考えているのか? と疑いたくなりますね。体面など面子ばかりを重んじて、実際に今がどういった緊迫した状況になっているのかという危機意識が、彼らにはまったくと言って良いほど欠如しているのです。
 以前にも書きましたが、こういう人達が一国の政治を預かっていたことは、幕末の政局が混乱する最も大きな原因であり、一つの悲劇であったと思います。

 少し私の推測を挟んで書くならば、関白の命令があったにも関わらず、朝議のメンバーが出仕しなかったのは、長州藩を中心とした尊皇攘夷派の圧力がかかったからかもしれません。親征反対派の慶徳の建言による朝議に参加して、尊皇攘夷派に睨まれるのを恐れたとも考えられます。
 いずれにせよ、このような形で朝議は成立しなかったのですが、この日、鷹司関白は孝明天皇に対して、慶徳の建議した「天覧の馬揃え」のことを上奏しました。そして、孝明天皇がそれを承諾し、馬揃えを行なうように命じるのです。
 このことについては、鷹司関白が同日20日付けで慶徳に宛てた書簡の中に出て来ます。
『贈従一位池田慶徳公御伝記』から、重要な箇所を抜粋してみます。


「昨日ハ来駕面上忝存候。及深更御草臥と存候。後談に御申之馬揃之儀、則今日言上候処、被催度御沙汰い候。先始て之事故、其朝臣と備前守か、会津肥後守か之内、弐人を被仰付度由、急速に被催候ハは、又々有志輩之人気引立にも可相成哉、何日頃ならハ調候哉内々御尋申入候」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「昨日はわざわざお越し頂きまして、かたじけなく思っております。当日は深夜になってからの御就寝になってしまったのではないかと思っております。さて、昨日、後の方の話に出ました馬揃えのことについてですが、早速今日、帝に奏上いたしましたところ、帝は「それは催した方が良い」との沙汰でございました。ただ、馬揃えについては初めての事なので、まずは貴殿(慶徳公)、備前守(備前岡山藩主・池田茂政)、会津肥後守(松平容保)の三人の内のいずれか二人に仰せ付けるのが良いということでございました。また、段取り良く、早期に馬揃えを実施することが出来れば、貴殿ら有志の方々の人気引き立てにもなりましょうから、何日頃であれば兵の整えが出来るかという内々のお尋ねでございます」



 この記述を読めば分かりますが、慶徳の建議を受けた孝明天皇は、慶徳か備前藩主・池田茂政、松平容保の三人の内の二人に、馬揃えを行なうようにと沙汰したのです。これが後に会津藩一藩だけの馬揃えに変わることになるのですが、それには孝明天皇の強い意志があったからであることは言うまでもありません。
 これまで書いてきましたが、会津藩に対する孝明天皇の信任は、非常に大きいものがありました。孝明天皇としては、やはり「頼むべきは会津藩のみ」という考えが心の中にあったので、最終的には会津藩に馬揃えを行なうよう命じたのだと思います。そのことについては、後に詳しく書くことにします。

 次に「早期に馬揃えを催すことが出来れば、慶徳や容保の人気引き立てにも繋がるであろうから、いつ頃であれば馬揃えを実施出来るか? と内々に尋ねられている」という記述は、非常に重要な事項であると思います。
 つまり、当時の孝明天皇は、三条実美らの尊皇攘夷派の旺盛に対して、心安からぬ思いを常に抱いており、親征反対派に馬揃えをさせてその人気を引き立てさせ、何とかこの形勢を挽回してもらいたいという考えがあったということが分かるからです。
 前回、私は慶徳が馬揃えを建言した理由の一つに「尊皇攘夷派に対する牽制」ということを書きましたが、孝明天皇自身もまた、親征反対派に馬揃えを実施させるということは、彼らの人気を引き立てることになり、また、尊皇攘夷派を牽制することにも繋がると考えられていたと推測することが出来ます。
 当時の孝明天皇自身もまた、この不利な形勢を挽回するためのきっかけを待っていたのかもしれません。そして、それが後の「八月十八日の政変」へと繋がっていくことになるのです。

 さて、先程鷹司関白が文久3(1863)年7月20日付けで池田慶徳に宛てた書簡を紹介しましたが、これに対し、翌日の21日、慶徳は次のように返信しています。少し長いですが、『贈従一位池田慶徳公御伝記』から抜粋してみます。


「一昨日は参殿仕蒙御尋問、殊に預御懇命重畳冥加之至、其砌は及深更御草臥被為遊候御儀と奉存候。後座及言上候馬揃之儀、被為遂奏聞候処、備前守か会津肥後守か、下官之内両人之内え被仰付度御模様に被為在候旨奉敬承候。急速被催候ハは、有志輩之人気引立にも宜敷奉存候。先始て之儀に御座候間、御親兵之揃を叡覧被遊候ハはと奉存候。御親兵に御座候ても多人数之儀、不揃を一度には御六ケ敷可有御座と奉存候間、両度に相成候ては如何に御座候哉。御親兵に御座候ハは、廿三四日之内に被仰出候ても有之間敷と奉存候」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「一昨日は参殿した上で色々とご質問を頂き、また非常に親切な申し出ばかりで、身に余るほどの光栄でございました。その節は、殿下におかれましても、深夜になってからの御就寝ではなかったと思っております。さて、その席で私が言上いたしました馬揃えの儀についてでございますが、殿下が帝に奏上なされましたところ、備前守か会津肥後守か、私の三名の内いずれかの二名に対して、その儀を仰せ付けられましたことにつきましては、謹んでその旨を承りました。段取り良く、早期に馬揃えを行うことが出来れば、私達有志の人気引き立てにも宜しいであろうと私も思っております。さて、その儀につきましてですが、何事も初めてのことですので、まずは各藩から朝廷に差し出されている御親兵の馬揃えを叡覧なされてはいかがかと思っております。御親兵も多人数ですから、一度に全て揃って実施するのは難しいと思っておりますので、二回にわたって実施されてはいかがでございましょうや。御親兵の馬揃えならば、23、24日の内に仰せ出されても、実施出来るものであると思っております」



 少し長くなってしまいましたが、この鷹司関白と慶徳の往復書簡は、馬揃えについて非常に重要な史料だと考えていますので、敢えて長文を抜粋いたしました。
 まず、この慶徳の返信には、重要なことが二つ書かれています。


 一つ目は、孝明天皇の言葉を受けて、慶徳自身も同じく「急速被催候ハは、有志輩之人気引立にも宜敷奉存候」と、馬揃えを早期に行えば、自分達有志の人気が上がる、つまり尊皇攘夷派旺盛のこの形勢に対して、一つの牽制が出来るという考えを述べていることです。以前にも書きましたが、これは慶徳の馬揃え建言の動機ともなっている部分ではないかと思っています。

 そして、二つ目ですが、孝明天皇が、因州鳥取藩・備前岡山藩・会津藩の三つの藩の内の二つの藩で馬揃えを執り行うようにと沙汰したことに対して、「まずは、諸藩から選抜されている御親兵に馬揃えをさせるべきです」と慶徳が返答していることです。


 以前にも書きましたが、本来尊皇攘夷派を牽制するために、慶徳が馬揃えを建言したのであれば、親征反対派の三藩の内の二藩だけで行なうようにという孝明天皇の沙汰を喜びそうなものの、慶徳はそれを承諾せず、なぜ御親兵の馬揃えに意見を切り替えたのか? という一つの疑問が残ります。
 しかし、その答えは、この後の慶徳の手紙の文言の中に出てきます。
 また、続いて抜粋します。


「銘々手勢之揃と相成候得は、同列之面々は壱人にても二三千人より四五千人には至可申に付、混雑仕候計にて、最初よりは御六ケ敷様にも相考候に付、先急速御親兵之揃を叡覧被為在候様にと奉存候」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「銘々(因州・備前・会津藩主のこと)の手勢が揃うことになりましたら、これらの藩主は一人でも二、三千から四、五千の兵力を持っていると思いますので、それらの兵が合わさって一度に調練となりましたら、混雑して上手くいかない恐れもありますので、最初からそれをやるのは難しいかと考えております。そのため、まずは御親兵による馬揃えを叡覧して頂けたらという風に思っております」



 つまり、慶徳は、因州・備前・会津藩の内の二藩による馬揃えでは、余りに数が多過ぎて上手くいかないかもしれない、そうなれば人気の引き立てどころか、逆に失態を見せてしまうことがあるかもしれない。慶徳はそのことを恐れて、諸藩による馬揃えではなく、御親兵による馬揃えへと建議を切り替えたのです。
 また、私が推測を挟んでもっと踏み込んで書くならば、おそらく慶徳は、自分が建議した馬揃えであるから、自らの因州藩一藩に、その命令が下ると思っていたのかもしれません。それがフタを開けてみると、孝明天皇は二藩での実施を希望しているという沙汰なので、慶徳は二藩が合同で軍事調練を行うことは難しいと考え、逆に失態を見せて恥をかいてしまってはことだと思い、御親兵での馬揃えに意見を切り替えたのではないでしょうか。19日には「会津既に守護の任として其兵多し、且つ、某等の京に在る者兵また鮮やからず、右等の諸藩に御命令ありて」と言っていた慶徳自身が、急に諸藩の兵ではなく、御親兵への馬揃えに建議を切り替えたのは、こういう事情があったからではないかと私は推測しています。

 さて、慶徳自身はこのように御親兵での馬揃えに建議を切り替えたのですが、孝明天皇自身はそれを許可しませんでした。
 『贈従一位池田慶徳公御伝記』には、孝明天皇が御親兵の馬揃えを許可しなかったことについては、結局その事情は明らかにならなかったと書いていますが、私がその理由を推測するならば、おそらく御親兵というものは、いわゆる諸藩の寄せ集め部隊だったので、もし御親兵に馬揃えを命じたことにより、不慮の事態(つまり、調練中にその兵が倒幕の兵と化す状態など)が起こっては大変である、と孝明天皇自身が危惧したからではないかと思います。また、孝明天皇の胸の内には、既に会津藩へ馬揃えを命じるという考えがあったのかもしれません。それほど孝明天皇の会津藩への信頼は非常に厚いものがあったのです。
 御親兵の馬揃えを許可しなかった孝明天皇は、文久3(1863)年7月24日、会津藩一藩による馬揃えを勅旨として出すことになるのです。


(12)に続く




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