「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(12)会津藩の「天覧の馬揃え」@
 前回は池田慶徳の馬揃えの建議が、どのような経緯で孝明天皇に奏上され、そして実現に向かっていったのかについて詳しく書きました。
 今回はいよいよ会津藩の馬揃えがどのように実施されることになったかを書いてみたいと思います。

 文久3(1863)年7月24日、朝廷は会津藩に対して、次のような勅旨を出しました。


「来る廿八日、於御所建春門前、馬揃叡覧、雨天順延之旨、被仰出候」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「来たる7月28日、御所の建春門前において、主上(帝)が馬揃えを叡覧なされることになった。なお、雨天の場合は順延とする旨、仰せ出されている」



 当初、慶徳の建議を受けた孝明天皇が、因州鳥取藩・備前岡山藩・会津藩の三つの藩の内の二つの藩に対し、馬揃えを行なうように沙汰したことは前回書きました。
 しかし、それを受けた慶徳が二藩合同による馬揃えは困難が予想されるので、まずは御親兵による馬揃えにして頂きたい、と建言を切り替えたことも書きましたし、その慶徳の意図についても書きました。
 しかしながら、孝明天皇はその慶徳の建言を受け入れず、逆に会津藩一藩のみの馬揃えを命じることになったのです。この辺りの孝明天皇の心底には様々な思惑があったことも、前回推測して書いた通りです。一言で言うならば、会津藩に対する孝明天皇の厚い信頼がそうさせたと言えると思います。

 さて、その馬揃えの勅旨を受けた会津藩側の反応についてですが、それは『七年史』に詳しく書かれています。その部分を少し抜粋してみることにします。


「肥後守容保は人を遣はして、馬揃とは如何なる御趣旨にやと、問参らせしに、中納言の曰く、即ち調練の小なるものにして、軍陣一般の諸器械を備へ、甲冑を着し、陣列を張り、進退分合の形を為すべしとの事なりけり。肥後守おもへらく、此人心不安の時に當り、御所に近接して、戎器を整ふるは、吉兆にあらずと。野村左兵衛を遣りて、伝奏に弁解し、若し止むことを得ずんば、軽易に操練の形容をなし、戎衣を用ひざらん事を請はしめられしも、許さずして、申されけるは、主上は大に此事を楽しみ給ひて、其日の至る御待ありとの事なりければ、今は辞すべきにあらず」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(馬揃えの命を受けた)肥後守容保公は、人を遣わして「馬揃えとはどのようなものでしょうか?」と質問させると、伝奏・飛鳥井中納言雅典が言うには、「馬揃えとは、即ち小規模な軍事調練であり、合戦の際に用いる武具や武器などを用意して、甲冑を身にまとい、陣列を張って、行進・退却などの戦術・陣形を見せるものである。」ということであった。その返事を聞かれた容保公は、「最近は人心も不安な時期であるので、御所に近接した場所で、武器などを使用することは、縁起の良いことではない。」と思われた。そこで容保公は公用局の野村左兵衛を遣わして、伝奏にその旨を弁解し、「それでも、もし止むを得ない場合は、非常に軽い調練の形にして、武器や甲冑などを使用しないようにして頂けないか?」と請い願ったのであるが、それも許されなかった。飛鳥井中納言が言うには、「帝はこの馬揃えを非常に楽しみにされており、その日が来ることをお待ちになられています。」ということであったので、容保公は今はそれを辞すべきではないと考えられた」



 少し長くなりましたが、馬揃えの命を受けた会津藩側の対応は、このような形であったと『七年史』には書かれています。
 しかし、この部分の記述は、少し注意しながら読む必要があるのではないかと思っています。
 まず、会津藩は馬揃えを命じられた際に、「それはいかなるものでしょうか?」なんて、馬揃えが行なわれるのを初めて知ったかのような態度で、飛鳥井伝奏に尋ねていますが、19日に鷹司邸で慶徳が馬揃えの建議をした話は、おそらく会津藩側でも掴んでいたのではないでしょうか。この鷹司邸での朝議は、慶徳の他にもたくさんの大名が出席していますので、会津藩にも情報が入らないはずはないと思います。
 しかし、もし本当に会津藩がこの情報を掴んでいなかったとしたら、それは会津藩にとっては大きな手落ちだったと思います。当時は京都守護職の任にあたっているわけですから。ですので、この部分の記述は、形式的に飛鳥井伝奏にそれを伺っただけであったと解釈する方が良いと思います。得てして、こういったやり取りというのは、朝廷関連に関しては多いのです。知らないフリをして、形式的にでも改めて問い直すというやり方は。

 さて、次に容保は「この人心不安のこの時期に、御所付近で武器を使って軍事調練を行なうことは、宜しくないのではないか?」と考え、「極小規模での調練にして頂けませんか?」と願い出ていますが、これは朝廷守護の職を任じられている容保ならではの考え方かもしれません。孝明天皇のおぼえ目出度い会津藩が、天皇の前で荒々しいものを見せたくはなかったのかもしれません。
 しかし、後に「孝明天皇が楽しみに待っておられる」という言葉を伝え聞いたことにより、容保は俄然やる気を出してきます。それは後程詳しく書いていきたいと思います。
 容保が最終的にこの馬揃えを引き受けたのは、やはり孝明天皇が「会津藩の馬揃えを楽しみにしておられる」という言葉を聞いたからだと思います。

「主上は大に此事を楽しみ給ひて、其日の至る御待ありとの事なり」

 なんて言われると、容保としては辞退することなど考えも及ばなかったことでしょう。
 このようにして、会津藩は馬揃えを実施することを承諾することになるのです。

 『七年史』の記述を元に、馬揃えを命じられた会津藩側の対応を書いてきましたが、当時京都守護職の公用局(方)の一員であった広沢富次郎(安任)の記した『鞅掌録』という日誌には、その馬揃え実施の日取りについて、もっと具体的に記されています。その部分を少し抜き出して、色々な点から考察を試みたいと思います。


「急ニ日ヲ期シ近ク廿七八日ヲトシ催促セラルル頻ニシテ且言フ天皇ニハ大イニ楽ミ待玉ヘテ至テ急性ニ入ラセ玉ヘハ速ニ為スヘシト云フ思フニ當時親征ヲ勧メントスルモノ此事序ヲ逐サレハ其志ヲ得サル故ニ此ノ如ク催セルナラン」
(日本史籍協会編『会津藩庁記録三』所収・広沢安任『鞅掌録』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「急に日が迫った27か28日を期限として、頻りに馬揃えを実施するように催促があった。朝廷が言うには、「孝明天皇は、会津藩の馬揃えを大いに楽しみに待っておられ、早く見たいとおっしゃっておられる。なので、速やかに実施するように。」ということであった。私が思うに、当時、攘夷親征を推し進める者が、この馬揃えの儀を止めさせようとすれば、その実現も危うくなるがゆえに、このように早く催せと言ってきたのであろう」



 この記述を読むと、広沢の推測は非常に的を得ていたものであると感じます。
 順を追って書きますが、まず、孝明天皇が「馬揃えを早く見たい」と言っていることについても以前詳しく書きました。これは鷹司関白が馬揃えを建議した池田慶徳に宛てた書簡の中に、

「急速に被催候ハは、又々有志輩之人気引立にも可相成哉、何日頃ならハ調候哉内々御尋申入候。(急速に馬揃えを実施することが出来れば、有志の方々の人気引き立てにもなるので、何日頃であれば兵の整えが出来るか? という内々のお尋ねでございます)」

 と書かれてあることを見ても、それは明らかなことです。
 また、孝明天皇が「早く馬揃えを実施するように」と沙汰した理由についても、これまで詳しく書いてきました。

 少し話をまとめますと、当時の孝明天皇は長州藩を背景に持つ三条実美ら尊皇攘夷派の動きに対して、大きな不満を持っていました。これは松平容保を関東に追い払おうとした尊皇攘夷派の画策に対し、孝明天皇が秘密の勅書を容保に下したところでも詳しく書いたとおりです。
 このような不満を持っていた孝明天皇は、親征反対派に早期の馬揃えをさせることは、その人気を引き立てにもなり(「盛り返し」と言った方が適切かもしれません)、そして親征を推進している尊皇攘夷派を牽制することにも繋がると考えたのです。
 また、そのことにより、親征反対派に何とかこの形勢を挽回してもらいたいという願いを込めていたのではないかという、私の推測も以前書きました。
 前後の事情や色々な傍証から考えてみても、孝明天皇が「早く馬揃えを見たい」と言ったのは、これらの理由からであったと私は考えています。
 そしてここからが非常に重要なのですが、それは最後の広沢の推測です。

「思フニ當時親征ヲ勧メントスルモノ此事序ヲ逐サレハ其志ヲ得サル故ニ此ノ如ク催セルナラン」
(私が思うに、当時攘夷親征を推し進める者が、この馬揃えの儀を止めさせようとすれば、その実現も危うくなるがゆえに、このように早く催せと言ってきたのであろう)


 つまり、当時朝議を牛耳っていたのは、親征を推進する尊皇攘夷派の長州藩でしたから、彼らが親征反対派の旗頭ともなっている会津藩の馬揃えを邪魔するような動きに出たとしたら、この計画が潰されてしまう恐れがある。なので、出来るだけ早く会津藩に馬揃えを実施して欲しいということだったのではないか、と広沢は推測しているのです。
 この広沢の推測は、非常に的を得ているものと感じます。
 7月24日に会津藩に天覧の馬揃えの勅命が下り、そして実施をその四日後に設定するというのは、日程的に考えると異常なほど早いものだったと言えるでしょう。
 しかし、これは孝明天皇としては、尊皇攘夷派の邪魔が入る前に会津藩に馬揃えを行なって欲しいと思っていたと言う風に解釈できます。つまり、この早さには、今まで縷々述べてきたように、様々な意味が込められていたのです。
 また、広沢は「其志ヲ得サル」という風に、「志」という言葉を使っていますが、私は前後の関係から考えて、より分かりやすくするために、少し異訳して「実現」と訳しましたが、「目的」という風に解しても良いのではないかと思います。

 少し話がそれますが、以前私が読んだ会津藩関係の本の中に、

「こんなに早期に馬揃えを命じたのは、会津藩に恥をかかそうと考えた尊皇攘夷派の策略によるものである」

 なんて書いているのを見た覚えがあるのですが、これはとんでもない誤解で、急速に実施を求めたのは孝明天皇自身であったことは、私がこれまで書いてきたことでお分かり頂けたのではないかと思います。
 ただ、会津藩に対し、早く馬揃えを行なうようにと勅命が下ったことは、表面上だけ見れば、尊皇攘夷派の策略と勘違いするのも無理ない部分もあります。なぜならば、この後にも書きますが、会津藩の馬揃えを失敗に終わらせようとする尊皇攘夷派の動きが後に出て来るからです。そのことから考えても、親征を推進する尊皇攘夷派も、この馬揃えが親征の儀に与える影響を危惧していたことがうかがわれます。
 私が読んだ本の作者は、このことを混同して、馬揃えの早期実施の勅命が尊皇攘夷派による策略だと考えたのかもしれません。
 また、その尊皇攘夷派の動きについては、その時になってから少し触れたいと思います。


(13)に続く




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