「会津藩と薩摩藩の関係(前編)−「会津藩馬揃え」を中心に−」
-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-


(13)会津藩の「天覧の馬揃え」A
 これまで書いてきたように、会津藩に早期の馬揃え実施が命じられたのには、様々な思惑があったことは分かって頂けたかと思います。
 会津藩ですが、勅旨を受けた日の四日後の馬揃えの実施を命じられたわけですから、その日から慌しくその準備に追われたであろうことは想像に難くありません。
 そして、ここで少し注目するべき点があります。24日〜28日までの間で、松平容保の馬揃えに対する考え方に変化が見られるということです。

 当初、朝廷から馬揃えを行なうように勅旨を受けた容保が、

「人心が落ち着かないこの時期に、御所の付近で武器を使うことは良くないと思うので、極小規模の馬揃えにして頂けないか?」

 と願い出たことは、以前にも書きました。
 このように馬揃えが命じられた当初、容保は出来る限り荒々しいことをしたくないと言っていたのですが、実施までの四日間の間にその心境が変化してきます。
 これは前回も書きましたが、

「主上は大に此事を楽しみ給ひて、其日の至る御待ありとの事なり」

 と、飛鳥井伝奏から孝明天皇の言葉を伝え聞いたからです。それを裏付ける記述を『七年史』から少し抜き出してみます。


「練兵に属する数ヶ條を挙げて、伝奏の承諾を請はれけり、其條中空発の件は堅く停められ、又大砲の如きは装薬點弾の形を演ずるをさへ停め、其物を見るをも厭はるるが如かりけり、会藩松坂三内は、豊岡大蔵卿随資に就きて、空発を禁ぜられしは、何の御為めなりやと問ひしに、大蔵卿の曰く、会津の士強悍、或は勢に乗じて、実弾を発せん事を恐るるなりと。此語を聞く者、尚能く御親征を主張せらるるを怪しみ笑わざるなし」
(北原雅長『七年史』第一巻より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「(会津藩は)練兵(馬揃え)に関する事項を数ヶ条作成して、伝奏の承諾を得ようとしたが、その条中にあった鉄砲を使って空発を撃つということに関しては、堅く禁じられた。また、大砲にいたっては、弾丸を装填する演技すら禁じられ、そういう行為を見ることも嫌がるような感じであった。公用局の会津藩士・松坂三内は、豊岡大蔵卿随資の元に行って、「空発を撃つことを禁止されたのは、どういう理由があってのことですか?」と尋ねると、豊岡卿は、「会津藩士は、強くそして剽悍である。そのため、或いはその勢いに乗って、実弾を発射するかもしれない。そのことを恐れているためである。」と答えられた。この言葉を聞いた者は、「そんな臆病なことで、よくもまあ御親征をしようなどと言うものだ」と怪しみ笑ったものである」



 この記述からも色々なことが分かるのですが、順を追って書きますと、まず当初「軽易に操練の形容をなし、戎衣を用ひざらん」となるべく荒っぽい調練は避けたいと言っていた松平容保が、馬揃えの際に行ないたい条項の中に、銃や大砲の空砲を発砲することを含んでいたことに着目する必要があります。
 容保が馬揃えを命ぜられた当初の考えとは正反対に、鉄砲や大砲の使用を考えた理由ですが、おそらく容保自身も「この馬揃えは、攘夷親征の歯止めとなり、また親征派への牽制にもなる」と考え直したからではないでしょうか。それは、つまり孝明天皇の「会津藩の馬揃えを楽しみにしている」という言葉に隠された意味を容保が感じ取ったからではないかと思うのです。なので、容保は当初の言葉とは違い、銃器を使い、大々的に馬揃えを実施しようと思ったのだと私は推測しています。

 この後にも書きますが、容保はこの銃器使用の件について、その後しつこく食い下がって、最終的に8月5日に行なわれた二回目の馬揃えの際に、銃器使用の許可を得ることに成功しています。容保がここまで銃器使用にこだわったのは、やはり孝明天皇の内意を感じ取っていたからだと解釈した方が良いと思います。
 後に書きますが、一回目の馬揃えの予定であった7月28日に雨が降り、馬揃えが順延された翌日の29日、容保は馬揃えの建議を行なった池田慶徳に対して、「相談したいことがあるので、お会いしたい」という手紙を書き送っていることが、『贈従一位池田慶徳公御伝記』の記述に出てきます。その部分を少し抜粋してみます。


「守護職松平肥後守、二十九日公に書を寄せて、談じ入れたき義あればとて、二日・四日の内に来訪を求めたれば、公、是日赴かる。(中略)肥後守、又明日の御馬揃の義、小銃操練に空発を差許さるれば、一段と立ちまさりて見ゆるべしと告げたり。公これに同意して、周旋せらるる処ありければ、其の如く朝廷の仰出であり」
(鳥取県立図書館編『贈従一位池田慶徳公御伝記(二)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「京都守護職の松平肥後守容保公は、7月29日に慶徳公に手紙を出して、「相談したいことがありますので、8月2日か4日にお越し頂けないでしょうか?」と来訪を求めていたので、この4日に、慶徳公は容保公の元へお出かけになられた。(中略)容保公は、「明日の馬揃えのことについて、小銃を使って操練し、空発を撃つことを許されれば、一段と勇ましい馬揃えをご覧に出来ると思っております。」と言われた。慶徳公は、この容保公の提案に同意して、朝廷へ周旋することにしたので、銃器使用の許可が朝廷から仰せ出されたのである」



 つまり、8月4日に容保は馬揃えを建議した慶徳に対し、「小銃を使った調練をしたいので、御尽力頂けないか?」と依頼したのです。容保が「小銃操練に空発を差許さるれば、一段と立ちまさりて見ゆるべし」と言っていることに注目するべきでしょう。つまり、容保自身も立派な馬揃えを見せることが、孝明天皇のお考えにも叶い、また攘夷親征推進派に対する牽制ともなると考えていた傍証になるのではないかと思います。
 容保が当初穏便に済まそうと考えていた馬揃えを、急に荒々しくしたいと考えを改めたのは、こういった理由があったからであると思います。

 さて、話を最初の『七年史』の記述に戻しますが、その中に、

「公用局の会津藩士・松坂三内は、豊岡大蔵卿随資の元に行って、「空発を撃つことを禁止されたのは、どういう理由があってのことですか?」と尋ねると、豊岡卿は、「会津藩士は、強くそして剽悍である。そのため、或いはその勢いに乗って、実弾を発射するかもしれない。そのことを恐れているためである。」と答えられた」

 と書かれています。
 豊岡随資という人物は、当時尊皇攘夷派の息のかかった公卿で、後の八月十八日のクーデターの際には、御所への参内を禁止された人物です。ですので、豊岡随資が色々と言い訳がましいことを言っているところを考えると、会津藩の武器使用について、尊王攘夷派の何らかの横やりが入っていたことが十分に想像できます。
 長州藩を中心とした尊王攘夷派の人々も、公卿というものが「いかに臆病者であるか」というのを十分に知っていたので、会津藩の馬揃えが、攘夷親征の儀に少なからぬ影響を与えるのではないかと危惧していたのです。そのため、この後彼らは会津藩の馬揃えを失敗に終わらせようと画策してくるのです。


(14)に続く




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