「鴻門の会」後記(3)
-薩長反目の兆し-


 話が大きくそれてしまいましたので、ここでもう一度話を戻します。
 幕閣の間に芽生えていた「朝廷アレルギー」のため、久世老中がなかなか上京して来なかった事に対して、滞京していた久光は業を煮やし、

「老中が上京して来ないならば、朝廷から勅使を派遣して頂くよう建議しよう」

 と考え、朝廷に対して勅使派遣のことを盛んに運動し始めました。
 この勅使派遣については、人選の問題や、その他久光が勅使の護衛として任命されるに至るまで、様々な紆余曲折があったのですが、これを書いていると、またまた長くなってしまいますので、ここでは省略します。
 話を強引に進めると、色々と物議を醸し出した結果、ようやく勅使に公卿の大原重徳が決まり、その勅使護衛役として、島津久光に対して勅命が下ったのです。

 さて、一方の長州藩についてですが、ようやく勅使に大原重徳が決まり、久光にその護衛の任が命ぜられると、朝廷は長州藩に対しても、江戸に下向する勅使の補佐を行なうようにとの勅命を出しました。
 朝廷が薩摩藩と同じく長州藩に対しても勅使補佐の勅命を下したのは、これまでの長井雅楽の公武合体斡旋運動や藩主・毛利慶親が朝廷に対して建白を行っていた実績、またその頃、参勤交代のために慶親が江戸に滞在していたこと等の理由から、この運びとなったのです。
 この段階では、朝廷は薩長両藩が相連携して、勅使の補佐にあたるように命令したわけです。
 久光としては、以前の寺田屋事件の際に長州藩士が加担していた一件もあり、長州藩への心象は余り良いものではありませんでしたが、一旦勅命が降ったとあれば、大いに長州藩と連携して、幕政改革実現へのやる気を起こしていたのですが、その久光が大原を護衛し、東海道を通って江戸に入る前日の文久2(1862)年6月6日、久光と共に勅使の補佐を行なうようにとの勅命を受けていた長州藩主・毛利慶親が、急遽江戸を無断で出発してしまったのです。
 このことを知った勅使の大原は、非常に不快感を示し、そしてまた久光もそのことで非常に気分を害しました。朝廷からの勅使補佐の勅命を無視し、まるで久光と一緒に政治活動を行なうことを嫌うかのように、慶親がこそっと江戸を抜け出して出発したことに、大原と久光は非常に気分を害されたのです。
 また、慶親はその道中で久光と出会うのを避けるかのように、久光の通ってきた東海道ではなく、中山道を通って江戸を出発したことも、久光の心象を余計に悪くしたとも言えましょう。

 慶親の伝記的な資料である『忠正公勤王事績』(中原邦平著)には、この時の慶親の行動について、色々と説明ならぬ、弁明が書かれています。
 簡単に書きますが、これによると長州藩の言い分としては、長井雅楽の「航海遠略策」を破棄して政策転換を行なったこの上は、一刻も早く朝廷に対して、迷惑をかけたその疑念を氷解させることが先決だと思い、致し方なく急遽江戸を出発することにしたということです。
 しかし、久光にとっては、まるで慶親に逃げられたかのように感じたのは、無理もないことだったと言えるでしょう。また、久光にとっては、慶親に江戸を去られると非常に困る理由があったのです。
 当時の島津久光は正式な薩摩藩主ではなく、藩主であった忠義の実父というだけの地位しかもたない人物でした。そのため、久光は当然無位無官であり、江戸城内に入城する資格すらもなかったのです。つまり、久光という人物は薩摩藩内では非常に身分の高い人物として扱われていますが、一旦藩外に出ればタダの人、久光は陪臣と扱われて、久光には江戸城に入る資格も無ければ、老中に対して直談判しようにも、それを行なうチャンスすらなかったのです。
 久光がそのような状態にあったため、朝廷は久光を補助する意味で、官位もあり、江戸城内にも入城出来る資格を持つ長州藩主の毛利慶親に対し、そういった交渉の役目の補佐を期待していたわけですが、その当人の慶親が逃げるようにさっさと江戸を去ってしまったので、久光の幕政改革の要求運動は、当初非常に困難を極めることになったのです。このことも、久光の長州藩への悪感情をさらに大きくしたと言えるでしょう。
 例えば、久光が当時の老中であった脇坂安宅(わきさかやすおり)宛に出した手紙の中には、次のような文言があります。
 原文は漢文ですが、『島津久光公実紀(一)』から少し抜き出しますと次の通りです。


「大膳大夫爰許エ罷在候ハ〃小子面会直談致候所存モ有之候得共著ヲ乍存道ヲ替ヘ前日発足之次第何共不審千万心底難量御座候」
(『島津久光公実紀(一)』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「大膳大夫(慶親のこと)が江戸に居たならば、小子(久光のこと)は面会し直談するつもりでいたのですが、私が江戸に着くと知っていながら、道を変更して(慶親が中山道をとったことを意味する)、前日に江戸を出発してしまったことについては、私は不審の気持ちで一杯で、慶親のその心中をはかりがたく感じている次第であります」



 当時の久光の不満と怒りが非常に溢れ出ている文章だと思います。
 また、この後のことになりますが、長州藩は藩論を百八十度転換し、久光が留守中の京都において、最もラジカルな尊皇攘夷運動を始めることになります。
 久光としては、出し抜けを食らった上に、自分の行なった公武合体運動をすべて破壊するかのような長州藩の過激な政治運動に対し、さらに悪感情が重なったと言えましょう。
 このことが薩長間の反目への兆しとなるのです。薩摩藩と長州藩、幕末における二大雄藩の反目は、幕末史を大きく複雑化させることになるのですが、その種子はこの当時に蒔かれたと言えると思います。
 歴史だけではなく、これは何事においても言えることかもしれませんが、何の理由や原因もなく、事件や事故が起こったりすることはなく、そこには必ず理由や背景があるものです。薩長間の反目もまた、突然降って湧いたかのように起こったわけではなく、それまでの間に色々な理由や原因が積み重なった結果であったと言えましょう。


(4)に続く



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