「鴻門の会」後記(4)
-周布政之助の薩長融和運動-


 ようやくここから私が書いた「鴻門の会」の中身について書くことになりますが、前回書いたように、長州藩主・毛利慶親が島津久光と一緒に政治活動をすることを嫌うかのように、入れ替わりに江戸を脱出したことに対し、周布政之助ら当時の長州藩の要人達は、薩摩藩に対して申し訳ない気持ちで一杯であったと思います。
 そのため、周布は薩長両藩の融和を計ろうと考えて、薩摩藩の重臣であった大久保一蔵や堀小太郎との会合を開こうと考えたのです。つまり、私が「周布は薩長両藩士の親睦と融和を目的としてこの会合を催し」と書いたのは、このような歴史的背景と事情が裏にあったからなのです。

 後世「鴻門の会」と呼ばれた周布が企画した薩長両藩士の会合は、文久2(1862)年6月12日に行なわれたものですが、周布はその二日前の6月10日にも、酔月楼という料理屋に大久保達を招いています。
 周布が二日間に渡って大久保達を料亭に招待したことを考えると、当時の周布が薩摩藩に対して、非常に気を遣っていたことがよく分かります。
 今回のエッセイで参考にした『偉人周布政之助翁伝』には、次のような記述があります。


「翁は勅使の東着に先だちて藩公の発駕せしは、薩摩藩士の感情を害したるを察し、其の融和を謀らんとして苦慮斡旋し、小幡彦七と共に小太郎・大久保一蔵等を酔月楼に閑話し、互いに俚歌を謡ひ詩作を試み、各々霑酔して歓を盡した。」
(『偉人周布政之助翁伝』より抜粋)

(現代語訳by tsubu)
「翁(周布のこと)は、勅使が江戸に到着するのに先立って、藩主・慶親が江戸を出発したことに対して、薩摩藩士達が感情を害しているのではないかと憂慮し、薩長両藩士の融和を謀ろうと考え、苦心して斡旋し、小幡彦七と共に堀小太郎・大久保一蔵らを酔月楼に招いて閑話した。宴席では、互いに歌を詠んだり詩を作ったりして、各々気分良く酔うほどに歓待を尽くした」



 この記述から考えると、当時の周布は、慶親が久光に会うことを避けて江戸を出発してしまった事に対して、薩摩藩側に非常に申し訳無い気持ちで一杯であったと言えましょう。
 少しここで補足しますが、前回にも書いたとおり、薩摩と長州というこの二大雄藩は、後に非常に険悪な仲となって幕末史を複雑にするのですが、元々両藩は険悪な仲であったわけではなく、またかと言って特別親密な仲であったというわけでもありません。
 ただ、寺田屋に集結して倒幕を目論んだ薩摩藩士・有馬新七らは、長州藩士と頻繁に会合を持ち、お互いに足繁く往来していたので、文久2(1862)年という時期は、比較的に交流があった時期であったと言えるでしょう。
 しかし、前回書いたとおり、慶親の江戸出発による長州藩の非協力的な態度を感じた久光が、長州藩に対して、さらに悪感情を持ち始めたことから、両藩の関係は一層難しい局面へと入って行くことになるのです。


(5)に続く



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